太田述正コラム#3575(2009.10.10)
<人間主義の起源(続)(その3)>(2009.11.10公開)
 「・・・あくびは伝染するのか?
 然り。犬は飼い主のあくびにつられて自分もあくびをするし、チンパンジーは我々が連中に示したあくび〔に対する反応として〕あくびをする。
 あくびの感染はとても興味深い。
 というのは、それは、人間と動物の間の深い身体的なつながり<を示すもの>だからだ。
 自閉症の子供のように、人間でも共感能力に問題のある人は、あくびに感染しない。
 それは、彼等が他人のあくびに関心を払わないのか他人によって影響をそもそも受けないのかのどちらかだ。・・・
 
 ・・・どうして特定のふるまいが出現したかということとどうして行動者達がそれをやっているのかとは区別しなければならない。
 これは、利他的性向についてもあてはまる。
 あなたは自分の血族と食物を分かち合う。
 あなたは好意を返してくれるであろう個人達と食物を分け合う。
 だから、食物を分かち合うというふるまいは利己的な諸理由で出現したわけだ。
 しかし、そうは言ってもこれは、個々の行動者が、それをやった瞬間において、このような潜在的便益のことを考えていたことを必ずしも意味しない。
 
 女性の方が男性よりもより共感的であるというのは本当だろうか。
 すべてのほ乳類は母性的面倒見を行うよう義務づけられている。
 彼女の子供達の難儀、寒さ、あるいは飢えや危険にただちに対応しなければ、彼等を失ってしまう。
 彼女は、彼等の感情の状態にとても敏感でなければならない。
 だから、もしこれが基盤なのであれば、そしてそれが自分の子孫ではない他の個人達に対する感受性へと成長していったのだとすれば、性による差異(bias)があるのは極めて明白だろう。・・・
 
 ・・・一体全体、どうして一皮めくると、我々は競争的な後ろから一撃を食らわせる存在であるという観念が根強く残っているのだろうか。
 その観念は、産業革命の初期に確立した。
 その頃は、人間は競争的であるという図柄を描き、資本主義制度をそのようなイメージに立脚させることが有益だったのだ。
 そして、そうすることで、多くの政治的イデオローグや経済学者達は、我々が高度に社会的な種族でもあることを忘れ始めたのだ。
 <ただし、>経済学の創始者であるアダム・スミスのために一言弁ずれば、彼は制度を完全なる競争原理の上に構築すれば、その制度は余りうまく機能しないであろうことを自覚していた。・・・」(D)
 (4)総括
 「・・・「強欲はソト、共感はウチ」と楽観的なオランダ系の心理学者にして霊長類学者のフランス・デワールは記す。・・・
 我々<人間>のように、類人猿は他者があくびをするとあくびをするし、好意はお返しをしてくれるし、モノの不公正な配分には気色ばむし、最高のポストを追求するにあたって<よその>赤ん坊に接吻さえする。
 雄のチンパンジー達が高い地位を求めて張り合う場合、彼等は雌ザル達のところにやってきては彼女達の毛繕いをし、彼女達の子孫達をくすぐる。
 普段は、雄のチンパンジーは若い猿達にとりたてて関心は示さないのだが、集団の支援を必要とする時にになると、彼等はこういう連中に接近せざるをえないのだ。・・・
 実際、我々のうち幾ばくかは、それにダーウィンが気の毒にも関連付けられたところの、「適者生存(survival of the fittest)」という文句をつくった、社会ダーウィン主義者のハーバート・スペンサー(Herbert Spencer<。1820~1903年。イギリスの哲学者・古典的自由主義政治理論家・社会学的理論家>)のように考える傾向がある。
 実際、何人か、例えば、ヒットラーや20世紀初頭の英国の優生学者達(注)は、最も適した者だけが生存すべきだと考える傾向があった。・・・
 (注)コラム#257で20世紀初頭の米国の優生学(eugenics)の紹介をしたところだが、優生学という言葉を創った優生学の創始者は、ダーウィンの従兄弟で、ダーウィンの自然淘汰説に大きな影響を受け、スペンサー同様、ダーウィンの自然淘汰説を矮小化して誤解したと言える、イギリスのフランシス・ガルトン(Francis Galton。1822~1911年。イギリスの博学者。統計学者としても知られ、その一番弟子に著名な統計学者のカール・ピアソン(Karl Pearson)がいる)だ。ところが、イギリスでは優生学は上位人種ではなく上位階層の劣化を防ぐことに主眼があったが、イギリスでは余り流行らなかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Eugenics
 アダム・スミスは、自由市場主義の旗手であることは事実だが、常に誤解されてきた。・・・
 ・・・強欲社会の推進力に依存することは、その<社会の>構造を堀崩してしまうものなのだ。・・・」(C)
3 終わりに
 スコットランド人のアダム・スミスは、「隣国」イギリスにおけるイギリス的生活様式、すなわち資本主義は、個人主義だけに立脚していないからこそ機能していることを、十分承知していました。
 また、イギリス人たるダーウィンは、イギリス人を含む人間が人間主義的存在であることを当然視していました。
 ところが、イギリス人の中から、ダーウィンを矮小化して誤解した、ハーバート・スペンサーやフランシス・ガルトンらが出現し、その社会ダーウィン主義や優生学が、もともと利己主義的な社会であったバスタード・アングロサクソンたる米国を席巻するに至るのです。
 先の大戦後にその米国が英国に代わって覇権国となると、個人主義のみ、すなわち利己主義のみに立脚した米国流の資本主義が、資本主義のグローバルスタンダードと目されるようになり、サッチャー政権の時代に、本家本元の英国までこのような考え方に「汚染」されることになるわけです。
 ブレア政権の時代に、英国において、英国を本来の英国に戻す動きが出てきたところ、最近では、米国からも、米国をまともなアングロサクソン社会へと軌道修正させようとする劃期的な動きが、このように学界からも、(そこにたまたま金融危機が起こったわけですが、)オバマの大統領就任に象徴されるように政界からも、出てきたと私は認識しています。
(完)