太田述正コラム#3605(2009.10.25)
<「自分」は存在するのか(その1)>(2009.11.25公開)
1 始めに
コラム#3599で、どちらもユダヤ系米国市民であるアーレントとゴールドヘーゲンのホロコースト解釈の違いに触れたところですが、ニューヨークタイムスの10月20日付電子版記事(後出)をベースにして、もう少し、この問題を追求してみたいと思います。
A:http://ndpr.nd.edu/review.cfm?id=17705
(10月21日アクセス。以下同じ)
B:http://www.nytimes.com/2008/02/03/books/review/Bloom-t.html?_r=1&pagewanted=print
C:http://www.nytimes.com/2009/10/20/opinion/20brooks.html?ref=opinion&pagewanted=print
D:http://www.theatlantic.com/doc/200811/multiple-personalities
2 「自分」は存在するのか
現在、米国では倫理学(philosophical ethics)と人間科学(human sciences)とのコラボが始まりつつあります。(A)
「・・・<クワメ・アンソニー・アッピアー(Kwame Anthony Appiah。1954年~。ガーナ人(父)とイギリス人(母)の混血でガーナとイギリスで育った哲学者。プリンストン大学教授)
http://en.wikipedia.org/wiki/Kwame_Anthony_Appiah (太田)
のような(A)>多くの哲学者達は、例えば、良いことをやって良い社会を営むには正直とか親切といった徳を持つことが必要であるとし、良い社会はその市民達がこれらの徳を培うように図らなければならないと論じる。
しかし、大量の証拠が示唆するところによれば、これらの永続的な人格的諸特性・・仮にそのようなものが存在するとしても・・は、道徳的行動に関してさしたる役割を果たしていない。
そうではなくて、我々のふるまいは、驚くほど状況によって左右されるのだ。・・・
社会心理学者達は、例えば、戦争の時の残虐行為は、普通、ひどい人々による行為ではなく、正常な人々がひどい状況に置かれたためにしでかすのである、と論じる。・・・
・・・<だから、>我々は、「人格教育(character education)」に余り重点を置くべきではなく、人々のよりよい自身が前面に出るような諸状況を形成することを試みるべきなのだ、と。・・・
例えば、・・・<ある>研究によれば、厭わしさ(disgust)は道徳的非難の強力な引き金ということになっているけれど、<ある人に関して>不快になると、たとえ我々がそのように厭わしく思った理由が、その人、ないし・・・<その人の>行為、と何の関係もなくても、そのこと自体が我々を賤しくする。
このことは覚えておいて良い。とりわけ、厭わしさが現代の政治的修辞において演じる役割の大きさに思いを致すならば・・。・・・」(B)
ここのところは、今一つ何が言いたいのか良く分からないのですが、「罪を憎んで人を憎まず」とよく言うけれど、多くの場合、状況が人を悪人にしたり、人に悪いことを行わせたりするのだから、基本的に人はもちろんのこと、その人が犯した罪も憎んではならないのであって、人や罪を憎むことは自分を賤しくすることだと心得よ、ということを言っているのではないでしょうか。まるで仏教の世界ですね。(太田)
「・・・<山のような実験が行われた結果、>人々の現実のふるまいは、文脈にかかわらない形で、永続的な諸特性によって動かされているのではないことを示唆している。
家庭においていつも不正直な学生が学校でもいつも不正直とは限らないし、仕事において勇敢な人々が教会では臆病であるということがありうる。
<また、>晴れの日に親切にふるまう人が、曇っていて陰鬱な気分になった翌日には無感覚にふるまうかもしれない。
つまり、ふるまいには、心理学者達が言うところの「状況超越的安定性(cross-situational stability)」がなさそうに見えるのだ。・・・
このような見地からすると、人々は人格と呼ばれるところの永続的な代物など持ちあわせていないのだ。
我々は皆、複数の性向を内に秘めており、文脈に応じて特定の性向が活性化する、というわけだ。・・・
・・・<換言すれば、>我々は、互いに競い合う複数の自分からなるコミュニティーなのだ。・・・」(C)
具体的な引用はしませんが、我々は、「自分」が脳に宿っていると思っているところ、それはその限りでは正しいのだけれど、では脳のどこに宿っているかと言えば、どうやら、そんな部位はなさそうであり、脳は分散型のシステムらしいのです。
だとすれば、時間を超越してはもとより、特定の瞬間においてすら、与えられた状況にかかわらず、状況超越的な「自分」が常に整合的に行為を決定するなどと考える方がおかしい、ということになりそうです。
つまり、状況に応じ、時間に応じ、いかなる「自分」がその瞬間の行為を取り仕切るかは神のみぞ知る、ということのようなのです。(太田)
(続く)
「自分」は存在するのか(その1)
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