太田述正コラム#3377(2009.7.5)
<トロツキーとその最期(その1)>(2009.12.1公開)
1 始めに
 レオン・トロツキー(Leon(Lev) Davidovich Trotsky。本名Lev Davidovich Bronstein。1879~1940年)の最期を描いた、米スタンフォード大学フーバー研究所フェローのバートランド・パテノード(Bertrand Patenaude)の’Stalin’s Nemesis: The Exile and Murder of Leon Trotsky; Bertrand M Patenaude’ が上梓されたので、その書評を通じて、20世紀の狂気の一端を担った人物像に迫ってみましょう。
≪書評≫
A:http://www.guardian.co.uk/books/2009/jul/05/stalins-nemesis-bertrand-patenaude-review (本の紹介を超えた内容)
B:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article6471172.ece
C:http://living.scotsman.com/books/Book-review-Stalin39s-Nemesis-The.5380542.jp
D:http://www.literaryreview.co.uk/overy_06_09.html
E:http://www.oxonianreview.org/wp/the-dustbunnies-of-history/
≪適宜参照したもの≫
F:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC
G:http://en.wikipedia.org/wiki/Leon_Trotsky
H:http://en.wikipedia.org/wiki/Diego_Rivera
I:http://en.wikipedia.org/wiki/Frida_Kahlo
2 序章:ロシア時代
 「・・・<この本は、トロツキーの>ヨセフ・スターリンとの1924年のレーニンの死以降続いた権力闘争の大団円<を描いている。>それは、ジェノサイドを行った独裁者の亡命インテリに対する勝利<についてだ。>・・・」(C)
 「・・・一番鉄のような心を持っていたのはスターリンだった。
 彼はトロツキーとほぼ同い年だったが、1917年に至る革命前の年月を彼はボルシェヴィキの大義のために戦うべくロシアにとどまっていたのに対し、トロツキーは、この期間、ボルシェヴィキの一員であったことがなく、激しい反レーニン主義的論考を書き、外国で亡命生活を送っていた。
 1917年にロシアに戻ると、トロツキーは、やがて、ロシアの人々の混乱した革命的熱意を真のマルクス主義革命へと向かわせることができる唯一の手段であるとしてボルシェヴィキ主義と仲直りをした。・・・」(D)
 「・・・1917年の10月革命の夜、ロシアの穏健派の社会主義者達はペトログラードの第二ソヴィエト議会から一斉に退出しようとした。これは、同市で進行中であった過激派のボルシェヴィキによるクーデターに抗議するためだった。
 穏健派が議場から出る直前、アジっていたところの、口ひげと丸く輝く眼と、光沢のある鼻眼鏡のボルシェヴィキの代表が彼等の棺の最期の冷たい釘を打ち付けた。
 「おまえ達は哀れむべき孤立した連中だ」とレオン・トロツキーは吠えた。
 「おまえ達は破産者だ。おまえ達の役割は終わった。これからはおまえ達のための場所へ行け。歴史のゴミ箱へ!」と。・・・」(E)
 「・・・彼は軍事経験はなかったが、1917年にまず革命的民兵の組織者として名をはせ、次いで1918年からは戦争に係る人民委員として、事実上赤軍の司令官となって名をはせた。
 彼は、その後始まった内戦において共産主義抵抗運動を鼓吹し、外の世界においてレーニンに次ぐ二番目の男として知られるようになった。・・・
 それから突然彼は表舞台から姿を消す。・・・」(D)
 「・・・<トロツキーは、1918年から1925年にかけてボルシェヴィキ政権の陸海軍担当人民委員(大臣)を務めたが、>政治分野においてもまた、彼はあらゆる社会的分野にわたって行政を行ったところの政治秩序を設計し構築した。
 彼が1920年に書いた『テロリズムと共産主義』は、「人民の敵」とみなされた者へのテロの実行を正当化した。
 10月革命後の彼が権力の座にあった時期、彼は過酷な独裁体制を導入することを大いに楽しんだし、一党支配の必要性について疑問を投げかけることも一切なかった。
 彼の残忍さは追放された後も続いた。
 1931年にメンシェヴィキの指導者達が<スターリンによって>見せ物裁判に雁首を並べさせられた時、彼は一掬の同情も示さなかった。・・・」(A)
 「・・・<トロツキーは、陸海軍担当人民委員として>1922年までにボルシェヴィキ<を白軍との>戦争で勝利<に導いた。>
 そして、レーニンがその2年後に(脳梗塞、梅毒、毒の投与、ないしはこの三つの何らかの組み合わせによって)死ぬと、誰がこの公式のものとしては史上初の社会主義国家の指導者になるかという問題が、トロツキーにとっては、生か死かの問題となった。
 ヨセフ・スターリンは、トロツキーをゴミ箱にたたき込もうと決意していた。
 慢性的な熱と虚弱な健康に悩まされ、病がちのトロツキーは1924年に黒海に向かっていた。
 その時、彼はスターリンからの電報でレーニンの死の知らせを受け取った。
 その電報には誤った葬儀の日付が記してあり、それではトロツキーが列車でモスクワに引き返しても葬儀に間に合うことは不可能だった。
 国家の革命英雄達がレーニンの葬儀のためにクレムリンの欄干に向かって行進した時、トロツキーの姿を誰も見つけることはできなかった。・・・」(E)
 「・・・ 党に権力基盤を持たず、実質的な仕事を与えられないまま、彼は野心的なスターリンに容易に出し抜かれてしまうのだ。・・・
 トロツキーの勃興と没落を説明することは容易ではない。
 彼が1917年にレーニンのボルシェヴィキの人々から受け入れられたのは、彼がいかなる犠牲をも厭わずに労働者達の天国を創造することに絶対的に身を捧げていたことと、革命的大衆の間で圧倒的な人気があったからだ。
 内戦における彼の直感力のある(inspirational)指導力は、彼の同僚達の何人かの間で、彼がナポレオン的な野心を抱いているのではないかとの恐れを生んだ。
 しかし、最大の問題は、彼が恒久革命という考え方・・ロシア社会を変革する一方で、発足したばかりのソヴィエト国家が萎えてしまわないように他の場所における革命も推進する・・を絶対的に信じ込んでいたことだった。
 これに対し、他のボルシェヴィキ達、とりわけスターリンは、一国における社会主義を強調したが、こちらが1920年代半ば以降の現実的教義となった。
 トロツキーは孤立し、有名な1926年の政治局会議でスターリンに対し、「革命の墓堀人」になったと非難した。・・・」(D)
 「・・・この独裁者は、<このことで、>彼を決して許すことはなかった。・・」(B)
 「・・・政治的内ゲバの数年の後、体制を支配するに至ったスターリン主義一味は、1927年にトロツキーを投票で政府から追い出した。
 その1年半後、この一味は、彼をソ連から永久に追放した。・・・」(E)
3 初期亡命時代
 「・・・1929年の亡命以降、トロツキーはスターリン主義国家に係るすべての恐怖と怒り<の象徴たる>稲妻のような指揮者となった。
 「トロツキー主義」は、最も親ソ連の共産主義者の眼からは、ファシズム、裏切り、そして反革命と同義となった。
 ソ連の外では、トロツキーは、スターリンのコミンテルンの窒息させるような態様に対する恒久共産主義革命活動なる直接的挑戦の象徴となった。
 これこそが、1930年代に多くの共産主義者達をしてトロツキー主義に帰依させた理由だ。
 このことは、どうしてトロツキーが暗殺の標的となったかも説明する。・・・
 <追放されてから彼は、>まず、トルコに赴き、最終的には、短期の欧州各地での滞在の後、事実上投獄されていたようなものであったノルウェーからメキシコに向けて船で赴いた。・・・」(D)
 「・・・トロツキーの生涯における不幸のすべてがスターリンに帰せられるわけではない。
 精神的に不安定で結核に冒されていた<トロツキーの娘の>ジナ(Zina)は、ソ連を去って<トルコの>マルマラ(Marmara)海で彼女の父親に合流した。
 すると、すぐにトロツキーが借りていた家で不審火が何回か起こった。
 彼の身の回りにいたトロツキー主義者達は、ジナが犯人ではないかとの疑いを持った。
 彼女は父親のために政治的任務を遂行している時だけが幸福だったというのに、彼は彼女を邪険に扱い、彼女をベルリンに治療を受けさせるために送った。
 ドイツから彼女は母親に、自分がこんなになってしまった根本原因は、自分が「生まれたその日から崇敬してきた」男が彼女を疎外したからだ、と訴える痛ましい手紙を何通も送った。
 絶望の余り、彼女はガス自殺した。
 トロツキーの『反対派一覧』は、これをスターリンのせいにしているが、決定的な要素は、トロツキー自身の感情的共感能力の欠如だったのだ。・・・」(A)
(続く)