太田述正コラム#3440(2009.8.4)
<欧州の中世初期(その2)>(2009.12.23公開)
3 ローマ末期
 「・・・この本とギボンの主著との最も目につく違いは多分、ウィッカムがほとんど瞬時に衰亡と滅亡という観念を排斥するところにある。
 ローマ世界の末期は、彼が示すように、安定した精緻な(sophisticated)社会であり、その紐帯は、恩顧(patronage)、商業、そして何よりも課税であり、その市民達は、しばしば、殷賑を極めた諸都市または田舎の荘園(estates)に住んでいた。
 ・・・それは、ゴートやヴァンダルが現れた時に突然崩壊したわけではない。
 実際、いまだに我々が「野蛮人」と呼ぶところの人々は、しばしば、宗教、貨幣あるいは言語等を問わず、ローマの範例を採用したばかりか、時代の終焉といった感覚などほとんど言ってよいほど持ち合わせてはいなかった。
 北アフリカでは、ヴァンダルは、「自分達が極めてローマ人的であると思って」さえいた、とウィッカムは記す。
 西ローマ帝国の終焉は、進化の物語であって、一夜にしての崩壊ではなく、最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルス(Romulus Augustulus<。461/463~476年>)の476年の廃位は、歴史における最大の取るに足らない出来事(non-event)だった。・・・」(H)
 「・・・5世紀における<西>ローマの没落は、ヴァンダルが北アフリカの穀倉地帯を奪取した結果もたらされたものだ。・・・」(I)
 「・・・<すなわち、>北アフリカと欧州との間の経済的通信(及び課税)線が切断されたことによるのだ。・・・」(K)
 「・・・<その証拠には、>8世紀と9世紀における商業の復活は、シャルルマーニュといった西側世界の支配者達の取るに足らない行政的努力によってというよりは、エジプトと、この時点までにイスラム世界となっていた東方世界の各地・・<西>ローマの没落以降も都市化と長距離貿易が維持された・・の経済的興隆がもたらしたものだ。
 ウィッカムの研究がいかに包括的(inclusive)であるかは、ブリテン諸島でさえ、欧州問題の中に、いささか場違いながら、適切な場所を占めることが許されたことからも分かる。・・・」(I)
 「・・・ローマ世界末期の繁栄は、帝国の地中海周辺地域全体の支配に主として依拠していた。
 帝国の経済的心臓部はエジプトであり、帝国の穀物と油の産地は、今日のリビア、チュニジア、そしてアルジェリアにほぼあたる北アフリカの諸属州だった。
 5世紀におけるヴァンダルによる西地中海地域の征服と、それに次ぐ、2世紀後のアラブ人による全北アフリカ沿岸部の征服は、帝国の欧州<地域の>諸属州にとって経済的大災害だった。
 一般には穀物で支払われ、欧州の膨れあがった諸都市を食わせたところのアフリカ諸属州からの巨大な税金の支払いが突然終わりを迎えた。
 ローマとコンスタンチノープルの人口は以前の数の数分の一に減少した。
 同じ現象が、より劇的でない規模で帝国における主要欧州諸都市の大部分で起こったに違いない。
 これらの出来事の影響は何世紀にもわたって続いたことだろう。
 ローマ文明は何よりも都市文明だった。
 しかし、新秩序における世界的諸都市は、バグダッド、ダマスカス、カイロ、イスラム教のコルドバ、そしてキリスト教のコンスタンチノープルだった。
 ラテンの欧州は、本質的に、田舎の、そして宮廷に立脚した文明だったのであり、13世紀にパリが興隆するまでは、この地域は上記の諸都市に匹敵するような諸都市を持たなかった。
 ローマ帝国の政府は、そのどちらも<帝国全域に>普及していた課税システムによって存続できていたところの、巨大な官僚機構とそれよりも更に巨大な軍、によって支えられていた。・・・」(L)
 「・・・ローマ帝国末期には、帝国予算の半分は、軍の給与費と食糧費に費やされたのではないか。・・・」(B)
 「・・・地中海を越えて行われていた貿易が縮小していくとともに、これらすべてが依存していた余剰が消滅した。・・・」(L)
 1957年だったか、カイロにいた頃、夏休みに日本郵船の新造貨客船に乗って地中海東部を周航したことがあります。
 最初の訪問国はレバノンであり、ローマ帝国時代のパールバックの遺跡を見学し、次いでトルコを訪問してイスタンブールのビザンツ帝国時代の聖ソフィア寺院を見学し、ギリシャを経て、最終訪問国のチュニジアでも、チュニス郊外のローマ帝国時代の遺跡を見学しました。
 これら地中海東部沿岸及びアフリカ北部沿岸の観光名所が、当時、そして恐らくは現在もローマ時代の遺跡である、ということは、西ローマ帝国、次いで東ローマ帝国が滅びてからも、新たな支配者となったアラブ人やトルコ人達が、ローマ時代の遺跡を大切にしたことを物語っており、それは即、ソフト面を含め、ローマ時代の遺産を彼等が受け継いだことを意味していることが、ウィッカムの指摘を受けて分かりました。
 また、「ウィッカムの研究がいかに包括的・・・であるかは、ブリテン諸島でさえ、欧州問題の中に、いささか場違いながら、適切な場所を占めることが許されたことからも分かる。・・・」という書評は、イギリスのカトリック系の雑誌に載ったものですが、カトリックはローマ帝国の国教だったというのに、イギリス人のホンネがにじみ出ていて面白いですね。
 お分かりだと思いますが、これは、イギリスは、ローマをほとんど承継していないのであって、ウィッカムがアラブ世界をローマの承継者とするのは勝手だが、イギリスすらそうしたのは、よもや本心ではあるまいが、誤解を生みかねず、困ったものだ、と言っているのですよ。
(続く)