太田述正コラム#3447(2009.8.7)
<欧州の中世初期(その5)>(2009.12.26公開)
 「・・・カロリング朝のシステムは、ギボンの言う<ローマ時代の>アントニウス家の皇帝達の幸せな時代(注4)を復活させはしなかった。
 (注4)いわゆる五賢帝(Five Good Emperors=Nervan-Antonian dynasty。96~192年)時代を指していると思われる。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Roman_Emperors
 ウィッカムは、ミッシは他のミッシによる圧政を差し止めるためしばしば派遣されたし、裁判の腐敗も蔓延していたと指摘する。
 それでもなお、ウィッカムが説明するように、貴族達は暴力的で腐敗していて貪欲ではあったけれど、彼らは公的責任感を持っていたし、…<公的な責任を果たすことが>死後の個人的救済への願望<成就>と結びついていると思っていた。
 小作人達は守ってもらえるのではないかという期待を持っていた。というのは、地方の諸権力は、国王達のご機嫌を伺う必要があったからだ。
 しかし虐げられた人々にとっては、恐らく、この<カロリング朝の>期間は、<中世初期の>大部分の期間よりはまだマシだった。
 とにかく、それから<最終的には>檻の戸は力一杯閉められてしま<い、小作人達はその檻の中に閉じ込められてしま>うのだ。・・・」(G)
 
 「<この本では興味深い挿話が数多くとりあげられている。例えば、>ロンバルディアのアンストルーダ(Anstruda)<という女性>が、兄弟達が所有していた奴隷の一人への愛を貫くため、彼女の自由を兄弟達に譲り渡した挿話とか、8世紀にはローマに至る巡礼路にあった買収宿の売春婦達の全員がイギリス人女性であったといいう仰天するように精細な挿話などだ。・・・」(F)
5 結論
 「・・・ウィッカムは、中世初期の欧州で我々の郷愁を誘うような話はほとんど聞かせてくれない。
 現在の<我々にとっての>価値である、自由主義、世俗主義、寛容、皮肉の感覚、他者の諸見解への関心…などといったものは当時には全く存在していなかった、と彼は記している。・・・」(A)
 「・・・当時の社会では、自由主義、世俗主義、そして寛容抜きの、社会的階統、上級者への隷属、そして女性の劣等性が当たり前であり、道徳的にももっともであると見なされていた。
 ウィッカムは、彼が<その著作を>読んできたところの、数百人に及ぶ中世の著述家達や思想家達について、無邪気にも、6つの世紀にわたる期間において、5世紀のキリスト教神学者のキルスのテオドレット(Theodoret of Cyrrhus<。393?~457?年。シリアのキルスの神学者>)、教皇の大グレゴリウス(Gregory the Great<。在位:590~604年。彼の名前を冠した聖歌で有名>)、及び9世紀の学者にしてシャルルマーニュの伝記(注5)の作者でルイ敬虔王の顧問であったエインハルドゥス(Einhard<。770?~840年>)、という3人の人物しか本当に会いたいとは思わない、と告白している。・・・
 (注5)邦訳が出ている。エインハルドゥス 著「カロルス大帝伝」國原吉之助 訳注 筑摩書房。(太田)
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa2495844.html
 クリス・ウィッカムは、およそそんな所へ行ってみたいなどとは一瞬たりとも思わせずして、中世欧州の豊饒さと多様性を持った全貌を生き生きと提示してくれている。」(D)
 「・・・<これは、ウィッカムが、>この期間についてギボンが下した評決のすべてを必ずしも論駁するつもりがないことを示唆している。
 「気難しく(sour)、独善的で偏執症(paranoid)で、かつ、自らの選択した道について頑固なヴァレリウス(Valerius)(注6)は、我々に中世初期の隠遁者の最も真正な声を聞かせてくれるのかもしれない」<とウィッカムは記す。>
 (注6)該当する人物を特定できなかった。(太田)
 このようなひどい判断を、<彼は、>聖なる苦行者(ascetic)に対して下すのだ。・・・」(F)
6 終わりに
 この本から伺えるところの、ウィッカムの、ローマを承継した欧州やイスラム世界に対する嫌悪感と、それにもかかわらず、欧州やイスラム世界を研究しなければならないという義務感は、広くイギリス人一般が共有しているものです。
 私が何度も繰り返し指摘しているように、イギリス人にとって、野蛮はドーバー海峡の向こう岸から始まるのです。
(完)