太田述正コラム#3666(2009.11.24)
<再び人間主義について(その3)>(2010.1.4公開)
 (5)問題提起
 「・・・<この本に出てくる>諸実験に対するコメントで、<著者は、>欧米の見方は世界で唯一のものではなく、それは概念的諸誤りに導く幾ばくかの弱点を包含さえしているという指摘を往々にして行っている。
 しかし、この本は決して欧米をぶっ叩くものではない。
 ニスベットは、アジア人の思考は、往々にして彼等を、<欧米人に比べて>より議論に出てくる操作された諸統計にだまされやすくすることにも留意している。・・・」(F)
 「・・・<とはいえ、>アジアにおいて共通の思考様式は、現代世界をつくりあげている複雑な諸ネットワークに、より適合的だ。
 文脈的にして連合性の(associational)スタイルは、要するにより有効(valid)なのだ。
 我々がギリシャ人達から承継した直線的なスタイルは、現代においては適合性が低いのだ。
 私は、欧米の将来は危うい(doomed)のかもしれないと思う。・・・
 アジア人について私が言ったことについてだが、私は、男性と比較して女性についても同じことが言えると思う。・・・
 私が言いたいのは、サービス経済においては、社会的手がかり(cue)を拾い上げる能力が巨大な優位をもたらすということだ。
 基本的には、私は、<この欧米人と男性という>二つの集団・・私は欧米化された男性だが・・は、農業社会と産業社会には大いに適合的であったかもしれないけれど、我々の思考の諸スタイルは、社会的情報が行き来するネットワーク化した時代には適合的ではない、ということを言っているのだ。・・・」(A)
3 終わりに
 (1)日本における「公論」
 Fの書評子が指摘する、アジアにおける公論の欠如については、基本的にその通りだと思いますが、日本の場合は、かなり事情を異にするのではないでしょうか。
 ご存じの方も多いでしょうが、日本の場合、1868年の五箇条のご誓文の第一に、万機公論に決すべし、と出てきます。
 この記述が後に、日本において(非欧米世界で最初の)民選議院の設立をもたらすことになるのですが、この記述の由来をさぐってみると以下の通りです。
 すなわち、五箇条のご誓文にこのくだりが入った経緯は、
 「五箇条のご誓文中の一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ については、「前段の「広く会議を興し」については、由利<公正>案には「会議」に相当する語はなく、福岡<孝弟>の修正案で「列侯会議」の語があらわれ、これが最終段階で「広く会議」と修正された。福岡は後年「この時平民までも此議会に与らしめる御つもりであったか」と問われ、「それは後から考えればそうも解釈されるが、御恥ずかしい話ですが当時私はまだその考えはなかったです」「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわたりて広く何処にも会議を興すという義です」と答えた・・・。しかしながら、ここを「列侯会議」に限定せずに漠然と「広く会議」に改めたことは、後に起草者たちの意図を離れ、民権論者によって民選議会を開設すべき根拠として拡張解釈されるようになった。また明治政府自身もそのように解釈するようになった。 後段の「万機」は「あらゆる重要事項」の意味。「公論」は公議と同義、または公議輿論の略語であり、「みんなの意見」または「公開された議論」といったような意味である。「万機公論に決すべし」の語句は、由利と親交のあった坂本竜馬の船中八策(慶応三年六月<=1867年>)に「万機宜しく公議に決すへし」とあり、ここから採られたものとみられる。・・・」
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/2755/%8C%DC%89%D3%8F%F0%82%CC%8C%E4%90%BE%95%B6/9/
ということです。
 この中に出てくる船中八策については、「福井藩の政治顧問であり、坂本との親交もあった横井小楠<(1809~69年)>の思想からの影響も指摘されている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E4%B8%AD%E5%85%AB%E7%AD%96
ところです。
 具体的には、
 「小楠は、・・・「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を政治運営のもっとも重要な営為として重視した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0
ということのようです。
 では、一体小楠は、このような発想をどこから得たのでしょうか。
 彼は儒学者であり、蘭学等を通じて欧米の公論の考え方を学んだということではなく、彼の生きた江戸時代の中江藤樹の学派における以下のような形の議論の重視、
 「「講会の書院」という表現は慶安元年(1648)・・・に<中江藤樹(1608~48年。陽明学者)によって>書かれた書簡「與池田子」・・・の中でただ一回だけ使われたが、それは藤樹晩年の教育思想と、壮大な彼の理想の集大成とも言えるものであった。・・・
 この書院での講会が、師友の個別交流や塾内の学習討論会と異なる点の一つは、講会への参加者が藤樹の塾における師友だけに限らず、誰でもいつでも参加できることにある。・・・藤樹の教学授受には、講釈のほかに講習討論の方法が導入され、・・・「心学の友」・「豪傑の友」を集めた「蓬莱の会」なるものも主催していた。講習討論・切磋琢磨という講会或いは「会座」は後に藤樹の「家法」として藤樹学派に継承されていった
 ・・・延宝二年(1674)に京都学館を創設<が創設され>た。京都学館は・・・、藤樹未了の事業を継承し、その志を果たそうとするものであった。「扇子の要の如く」京都学館は二十四諸国の、数千人の藤樹学派の総本山として、教育の場所と研修の会所となり、爾後百有余年にわたって存続しつづけた・・・」
http://liuqi2000.tripod.com/page12.htm
及び、町村の庶民の間での、町や村の役員の選出方法や意思決定方法(コラム#1607)から、公論という発想を得たに違いない、というのが私の考えです。
 (2)和辻哲郎の『風土』との照合
 和辻哲郎(1889~1960年)は、著書の『風土 人間学的考察』(1935年)において、モンスーン、砂漠、牧場の三風土類型を提示し、更にモンスーン風土の特殊形態として、砂漠風土的要素を含むモンスーン風土たる支那
http://park6.wakwak.com/~taka/Watuji/china.htm
と寒帯的要素を含むモンスーン風土たる日本
http://park6.wakwak.com/~taka/Watuji/japan.htm
の二つの風土をあげました。
http://park6.wakwak.com/~taka/Watuji/mokuji.htm
 ニスベットの欧米は「牧場」風土の地に相当し、アジアは「モンスーン」中の「支那」風土の地に相当する、と言えそうです。
 和辻は、人間を人間(じんかん)的存在と見、人間(にんげん)は、個人と(人間)結合や(人間結合の上位形態である)(人間)共同態との相互関係において存在すると考えました。
 そして、共同態を規定するものが風土的・歴史的に形成される「風土」・・ハンチントン等の言う「文明」・・であるとしました。
http://semi.natura-humana.net/2007/micromacro/fuudo2007.html
 ニスベットは、この本において、欧米と支那を対比することを通じて、改めて、このような人間主義的な人間のとらえ方、・・・だからこそ、ものの見方の違いが諸社会の間に存在している・・・の正しさを(実験によって裏付け、)示したわけです。
 なお、私が、欧州とアングロサクソンは全く対蹠的なものと見ており、そもそも欧米を一括りにする和辻やニスベットの見方はとらないことはご承知のとおりです。
 北方の「「野蛮な」諸部族」に注目するFの書評子は、後一歩で、私の欧州・アングロサクソン峻別論に到達する観がありましたが、あれくらいが米国人たる書評子の限界でしょうか。
 米国は、アングロサクソンを主、欧州を従とするキメラだというのが私の考えですが、ニスベットが米国で行った実験は、どちらかと言えばアングロサクソンを対象とする実験であったと言えるのであって、フランスやドイツで同じ実験をやった場合に、いかなる結果が得られるか、大変興味があるところです。
 いずれにせよ、和辻やニスベットのような人間のとらえ方は、支那においても日本においても常識的なものでしたが、欧米においては、実験という欧米的・・より正確にはアングロサクソン的・・手法によって、遅まきながらこのような人間のとらえ方が普及を始めている、ということになろうかと思います。
 
 ところで、ニスベットが完全に一括りにしてしまったところの、支那と日本の風土ないしは文明の違いですが、和辻の考えは考えとして、私としては、基本的には、支那では共同態の中に個人が埋没しており、かつ公の観念が希薄であるのに対し、日本では個人と共同態が良い意味での緊張関係にあり、かつ公の観念が確立しているところに違いがある、と考えています。
 そして、このような対立軸で考えると、日本はアングロサクソンに近く、支那は欧州に近いと私自身は考えているのです。
(完)