太田述正コラム#3471(2009.8.19)
<イギリス反逆史(その4)>(2010.1.14公開)
 「・・・<サッチャー首相>の「地域賦課金」(他のすべての人々にとっては人頭税)に対する反乱は、大量の不払いと警官374人と抗議者400人の負傷をもたらしたロンドンでの激しい暴動という規模に達した。
 彼女は屈しようとしなかったため、結局、首相の座から降ろされ、後継者によってこの憎まれた政策は撤回された。
 ウィリアム征服王の横腹にささった棘のようなウェークのヘレワード(Hereward the Wake<。1035~72年。イーライ島(Isle of Ely)を拠点にノルマン人に対する抵抗を続けた。>)から、その1000年後の人頭税反乱に至るデーヴィッド・ホースプールによるこのイギリス反乱史の主眼は、イギリスは他に例を見ない、血なまぐさい革命によって妨げられない継続的、安定的領域であって、イギリス人は寛容で平和的で容易には怒らない、という観念は最近のものであってしかも間違っている、というものだ。・・・
 ・・・<イギリスでは、>毎年11月5日に人形(ひとがた)を燃やすという儀式(ポリティカル・コレクトネスと保健/安全警察の不興をかっているために存続の危機に瀕している伝統)により、議会を爆破する陰謀が未遂に終わったことを祝ってきた。・・・
 17世紀の水平派は、イギリスにおける圧政は、11世紀に「ノルマンの頸城」が課せられた時から始まったと考えていた。
 19世紀のチャーチスト達は、13世紀のマグナカルタによって鼓吹された。
 そして、20世紀末にサッチャー氏にはむかった反逆者達は、人頭税から14世紀の農民の反乱の記憶を蘇らせた。・・・
 中世を通じて、すなわち、ジョン王にマグナカルタへの署名を強いた領主達から薔薇戦争<(百年戦争終戦後に発生した内戦。イギリス王室のプランタジネット家傍流のランカスター家(家紋が赤薔薇)とヨーク家(家紋が白薔薇)にそれぞれ諸侯が加担し、戦われた権力闘争。1455年~85年(87年説もある)。)>に至るまで、反乱はほとんどもっぱら富んで力のある人々によって行われたゲームだった。
 彼等の目的は、通常は、受け入れられた諸ルールに基づいてゲームを行わない国王を窘めることであって、国王を廃位させて他人で置き換えるのは、(エドワード2世やリチャード2世のように)彼等が行いを改めることを拒否した場合だけだった。
 1450年のジャック・ケード(Jack Cade<。~1450年>)の蜂起(注2)とそれよりも70年前の(大規模な民衆蜂起で純粋に革命的な社会的経済的目的を持った)農民の反乱を例外として、中世における様々な反乱は、現状に挑戦するというよりは現状を維持することに係るものだった。
 (注2)シェークスピアのヘンリー6世第2部にケードが登場する。劇中でのケードの言葉で一番有名なのは、「我々が最初にやるべきことは、法律家を全員殺すことだ。(The first thing we do, let’s kill all the lawyers.)」だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jack_Cade
 法律家(弁護士)が嫌われるのは万国共通だが、爾来この言葉は、アングロサクソン世界で、法律家を批判する時にも、そして驚くべきことに秩序紊乱者を批判する時にも繰り返し用いられてきた。(太田)
http://www.spectacle.org/797/finkel.html
 ホースプール氏が正しくも「回旋状の、テニスのサーブとレシーブの繰り返しのようなイギリスの宗教改革の歴史」によって、こういった傾向は、ほとんど変わらなかった。
 <ただし、宗教改革の結果、>宗教が政治に闖入したことによって、<反乱>は死ぬか生きるかの問題となった(raised the stakes considerably)。
 エリザベス1世の下でカンタベリー大司教を務めたプロテスタントのジョン・ウィットギフト(John Whitgift<。1530?~1604。清教徒弾圧政策を推進した。>)は、「君主(prince)に対する民事事項(civil matters)での不服従は神に対する不服従である」と警告した。
 しかしそれでも状況は<基本的には>変わらなかった。
 最も血なまぐさく最も遠大な反乱は、極めて現実的な「カトリック(popery)」の恐怖だけでなく、その時の君主が<ウィットギフトが説くような>国王大権(kingly power)を保持しているという非現実的な観念に対する恐怖によっても起こった。
 ホースプール氏が国内の反乱というよりは欧州大陸における出来事に起因する外国による侵攻と主張するところの、1688年の「名誉革命」の後、内発的な様々な蜂起は、(廃位されたジェームス2世派(Jacobite)による二つの反乱は別として、)三つの範疇に分類される。
 それは、(とりわけ投票に係る)個人的諸権利の普及を図ろうとするもの、経済的不満、そして(通常変化に反対して勃発するところの、しばしば外国人を対象とした)群衆暴力、だ。・・・」(E)
3 終わりに
 「・・・仮に英国について、政治的に安定しているという評判があるとすれば、それは極めて最近生まれた評判だ。 18世紀と19世紀に英国を訪問した欧州からの旅行者達は彼等が目にした混乱(disorder)に仰天したものだ。・・・この英国の歴史には「急進的(radical)伝統」があ<る>」(コラム#3465)
とか、
 「・・・ある者にとっては、<イギリスは>住民達が平和な漸進的変化と法遵守的非政治主義の国だが、他の者にとっては、それは、・・・暴力的無秩序<が支配する>国なのだ。・・・ ホースプールは、我々が<フランス革命>より以前のイギリスにおける激動を無視しがちであることを示唆する。」(コラム#3469)
とか、
 「デーヴィッド・ホースプールによるこのイギリス反乱史の主眼は、イギリスは他に例を見ない、血なまぐさい革命によって妨げられない継続的、安定的領域であって、イギリス人は寛容で平和的で容易には怒らない、という観念は最近のものであってしかも間違っている、というものだ。」(上述)
は、ホースプール自身による韜晦なのであって、我々はこんな避雷針に惑わされてはなりません。
 ホースプールのホンネは、イギリスがいかに欧州とは異なる文明に属するかを、完膚無きまでに明らかにするところにあるのです。
 
 ホースプールがあげる、イギリス(アングロサクソン)文明の、欧州文明と対比した特性は、次のとおりです。
 まず第一に、
 「<イギリス>の反逆的な人々は・・・しばしば、彼等は自分達が目新しいことを考えているということを完全に否定するのにやっきとなる・・・。<すなわち、彼等は、>過去においてうまく機能した諸慣習を復活することを追求しているだけだと・・・言<うの>だ。」(#3465)という点です。
 これは、できそこないではあっても一応アングロサクソンでもある米国にも引き継がれました(コラム#90)。
 これをもって、私は、アングロサクソンには(変化、あるいは発展が歴史であるならば、)歴史がない、と称しているのです。
 第二に、「<イギリス人は、>歴史<的アプローチ・・理想的であった過去に戻ろうとする・・を好むが、欧州人は、>・・・<(これはたまたまイギリス人がつくった理論の受け売りだが、)>自然権<等の>・・・抽象的理論<を好む。欧州人が>・・・暴力へと堕して行く<傾向があるのは、そのためであると考えられる。>」(#3465)という点です。
 第三に、「欧州では、革命家達が・・・体制転覆の必要性をがなりたててきた。 ところが英国では、・・・既存の当局に訴えてもっと良くふるまってくれるよう求める、というやり方だった・・・」(同上)というわけで、欧州人と違って、イギリス人には、昔から政府に対する信頼感が基本的にある、という点です。
 第四に、以上のすべてに関係しているところの、「<イギリスでは、>反逆者達には経済的かつ社会的苦境・・・のはけ口たる対象を求める」(同上)、すなわち、「人に対してではなく財産に対する「対象を絞った暴力<ふるう>」という特徴がある」(コラム#3469)、「つまり<、イギリスでは>、反逆が、・・・イデオロギーから出発したことはほとんどない」(コラム#3465)、だから、往々にして「反乱の目的が何なのか、必ずしも明確ではなかった」(#3469)、という点です。
 そして、ホースプールは、イギリスは、理想的であった(観念上の)過去に戻ろうとする試みを繰り返しつつ、次第にその過去の理想を享受することができる臣民の範囲を広げて行き、ゆっくりと着実に民主主義を実現して行ったのに対し、欧州諸国は、理想的であった(観念上の)過去を持たないくせに、イギリスの反逆者達がやってきたことを形の上だけで猿まねしつつ、イギリスを「追い越そう」とする試み・・例えば、民主主義を即時実現するという試み・・を繰り返し、その都度、巨大な悲劇を生んだ、ということを示唆しているわけです。
 
(完)