太田述正コラム#3487(2009.8.27)
<ローマ帝国の滅亡(続)(その4)>(2010.1.20公開)
「・・・ローマ史に関する現在の通説では、ローマ帝国は、北アフリカ出身の有能な皇帝であるセプティミウス・セヴェルス(Septimius Severus。145/146~211年)の211年の死から、タフで素晴らしい兵士であって一兵卒から上り詰めたディオクレティアヌスによる284年の権力奪取に至る騒々しい期間にほとんど崩壊した、としている。
ディオクレティアヌスによる一連の改革の後、より大きな軍隊と官僚機構を持ったところの、再建されたローマ帝国は、引き続く世紀の大部分において、より効果的な国家であり続けた。
ゴールズワージーは、セヴェルス<の死んだ211年>とディオクレティアヌスの統治<が始まる284年>の間の「軍事的無政府状態」は、蛮族の諸集団の侵攻や再興ペルシャ帝国からの危険というよりも、ローマにおける階級制度の再編の産物であると主張する。
セヴェルスは、上級司令部の多くにおいて、ローマ元老院議員を降職させ、それより社会的地位が低い、騎士階級(equestrians)の将校達で置き換えた。
その時はこれはいいアイディアのように見えた。
というのは、騎士階級は、軍事的・非軍事的な様々な司令部に専門性をもたらしたからだ。
しかしながら、この交替によって皇帝達の神秘性が損なわれてしまった。
騎士階級の将軍達と総督達は、素人的な元老院議員達よりもいい仕事をしたとしても、彼等は皇帝その人に対する敬意と恐れを、より少なくしか抱いていなかったからだ。
このことは、アウグストゥスの後継者達の次第に多くが、彼等自身、権力を宮廷反乱や軍事クーデターで簒奪した騎士階級出身者で占められるようになるとなおさらだった。
この内部的な権力闘争は、ディオクレティアヌスによるローマ政府の再編やコンスタンティヌス<(コラム#3483)>による312年のキリスト教の採用によっても止むことはなかった。
ディオクレティアヌスの下でローマ軍はより大きくなったかもしれないが、新たな累次の内戦による流血は、その構成員を枯渇させ、その士気を堀崩した。
コンスタンティヌスのキリスト教への帰依について言えば、彼の、キリスト教への改宗の後の、自分の息子と妻の暴虐なる殺害は、キリスト教の平和のメッセージがローマの平和(Pax Romana)の及ぼした影響がいかに小さかったかを示すものだ。・・・
376年に、現在のウクライナとルーマニアに住んでいたゴート族がフン族による攻撃によって脅威に晒された。
そこでゴート族は、皇帝ヴァレンス<(コラム#3483)>にローマ領内に移住させて欲しいと陳情した。
彼等は、その代わり、ローマの軍役に服すと申し出たのだ。
ペルシャとの新たな戦争に直面していたヴァレンスは、ゴート族を兵卒の手っ取り早い募集源と見て、これに同意した。
しかし、驚くべき愚かさの顕示というべきか、ヴァレンスは、土地を提供するなり補給品を提供するなりして、ゴート族を管理可能な氏族ないし部族の単位へと分割することを怠った。
1870年代の米国政府による平地インディアン達への扱いと同じようにローマの境界における役人達はゴート族を扱ったため、ゴート族は、2年経たないうちに反乱を余儀なくされた。
彼の以前のしくじりに輪をかけて、ヴァレンスは、ローマの西方の諸属州から日ならずして到着する予定であった、彼の甥のグラティオン(Gration)によって率いられた救援軍を待たずして、大急ぎで攻勢に出た。
こうして、今日のトルコのイスタンブールから遠くない場所で起こった戦闘は、ローマ人達にとっては大災害であり、ヴァレンスと彼の部隊の何千人もの命が失われた。
この大災厄は、全く起きるはずがなかっただけに一層瞠目すべきことだ。・・・
また、5世紀の「蛮族の累次の侵攻」というのは、歴史における最大の誇張(non-event)の一つだ。
ゲルマン人の諸部族が境界を超えてやってきたのは侵攻するためではなく、住まいと土地を求めてのものだった。
ゲルマン系の将校達がローマ軍ないしはその同盟諸軍で勤務した。
気持ちが揺れ動く皇帝ホノリウス(Honorius<。384~423年>)の下で何度も勝利をあげたスティリコ(<Flavius >Stilicho<。359?~408年。ヴァンダル族の父とローマ人の母の間に生まれた>)に関して起こったように、これらの指導者達は、彼等が仕えた皇帝達によって何度となく殺害される憂き目にあった。
他の者達は、410年にローマを略奪したゴート族の指導者のアラリック(Alaric<。370?~410年>)のように、反乱を余儀なくされた。
この悪名高い出来事は、大して死者が出たわけではなかったのに、語り継がれるたびに、恐怖の物語になっていった。
実際には、ゴート族は、彼等が約束されていた給与を得るためにローマへと行軍したのだ。
補償として略奪品を確保した後、彼等は行軍してローマを出て行った。
その間、アラリックは、教会が襲われないように衛兵を配置した。
ローマ人達による紀元前146年のカルタゴの破壊に比べれば、「野蛮なる」ゴート族によるローマの略奪など、はるかに穏やかな出来事だったのだ。・・・」(F)
「・・・ゴールズワージーは、
・米国の影響力とローマの帝国主義は似て非なるものだ。
・様々な問題に直面しつつも、米国の力は、西のローマと同じような形で崩壊することが運命づけられているわけではない。
・ローマ帝国の臣民達にとって、中央の帝国権力の崩壊は決して歓迎すべきことではなかった、というかその正反対だった。だから、米国のリーダーシップの崩壊という想像上の事態について、その結果生じる真空状態を埋めるであろう、うさんくさい諸代替物のことを考えれば、世界は軽々に歓迎すべきではない。・・・
と主張する。
彼はまた、後の<専制君主制下での>帝国が、アウグストゥスの<始めた>首長制(Principate)(注)下<での帝国>の時並に繁栄していたということの十分な証拠はないと主張する。
(注)皇帝達が、公式にはローマの共和制が続いているという幻想を維持するために共同で演出し続けた制度。皇帝も、あくまでもローマ市民という互いに平等な人々の中の筆頭者に過ぎない、と擬制した。この制度は、BC27からAD235まで続いたが、最終的に専制君主制にとって代わられた。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Principate
同時に彼は、ペルシャや様々な蛮族が、より初期の皇帝達が直面させられたものよりも特段、より大きくてより組織されていた敵対者達であったとは見ていない。
そうではなくて、ローマの最大の敵は己自身だったのだ。
マルクス・アウレリウス帝以降において戦われた絶え間ない内戦は、ローマ社会を不安定化し、その四囲の境界を脆弱化し、本来弱体であった様々な敵をして、ローマのこの不安定性につけ込むすきを与えたのだ。
後の皇帝達は、帝国の一般的福祉よりも単なる生き残りのことを考え、その結果、<ローマにとって>有害な改革ばかりが行われることになった。
元老院議員達は、皇帝への脅威にならないように軍の司令部から排除されたが、これは、皮肉にも、騎士階級の将校達、それに官僚達という、元老院議員達よりも低い社会階級に属する人々による、はるかに広汎ではるかに予測不能な権力闘争への道を開いた。
しかも、官僚機構と軍の分離と、それぞれの一層の細分化が、特定の軍・民官僚が皇帝を打ち倒すだけの資源を保持することがないよう推進された。
しかし、これが今度は、帝国が、外からの侵攻に対抗するために迅速に諸資源を集める能力を減じるという効果を持った。
その結果、当然のことと言うべきだが、少しずつ外敵達によって、<ローマ領内の>土地が占拠されることを許すこととなり、西の帝国が必要とする税収が奪われ、それが今度は軍と官僚機構を弱体化させ、それが更に侵入と力による植民を促したのだ。・・・」(G)
3 終わりに
ゴールズワージーのこの本が、今大評判になっているのは、軍事史家で大学の教師でもない人物によって書かれた人物中心の、いわゆる血湧き肉躍る歴史書だからでしょうが、そのことは、この本の歴史書としての価値を減じるものではありません。
下部構造が上部構造を規定するというマルクス主義的歴史観は間違っているからです。
すなわち、マックス・ヴェーバーが指摘した(コラム#16、156)ように、話はその逆であり、上部構造が時代を転換させ、下部構造がこの転換された時代の下で、次に時代が転換されるまでの間、あたかも主役を務めるように見える、ということなのです。
言うまでもなく、下部構造が大衆・・より正確には大衆的エリート群・・によって担われるのとは違って、上部構造の担い手は、ごく少数のエリート達であり、一般に、時代を遡れば遡るほど、このごく少数のエリートの関心に占める物理的な力の構築と行使に係る事項の割合は大きくなると言えるでしょう。
ですから、古代ローマ史は、社会経済史家ではなく、人物史家、就中軍事史家によってしか描かれ得ない、と言ってもあながち言い過ぎではないのです。
(完)
ローマ帝国の滅亡(続)(その4)
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