太田述正コラム#3507(2009.9.6)
<第二次世界大戦前夜(その2)>(2010.1.22公開)
4 独ソ不可侵条約
 「・・・<1939年8月24日>の早朝、スターリン立ち会いの下で、モロトフ<ソ連外相>とリッベントロップ<ドイツ外相>は、この条約にモスクワで署名した。
 ヒットラーは、自分があらかじめ予定していた8月26日の対ポーランド攻撃を取り消し、全く同じ形の攻撃を9月1日に行った。
 そして、9月3日までに、英国に引き続いてフランスがドイツに宣戦布告した。
 ヒットラーは、ほとんど一人だけ、本当に戦争を欲していた。
 しかし、彼は、ポーランド<だけ>に対する小さな戦争を欲しており、リッベントロップによる、英国もフランスもヒットラーと戦おうとはしないだろうとの保証を信じ込んでいたのだ。・・・」(E)
 「・・・いまだわだかまっていた、保守党内の宥和政策に対する支持は、独ソ不可侵条約によってかき消えるに至った。
 この条約は、ヒットラーをボルシェヴィキの脅威に立ち向かわせるという望みを絶ち切ったからだ。・・・
 チェンバレンは、<このように>状況が変化したことを受け、その変化に<遅ればせながら>対応した<のだ>。」(C)
5 ポーランド侵攻
 「スウェーデンの実業家のビルガー・ダーレルス(前出)によって、英国と、彼の友人のヘルマン・ゲーリングの間の半公式交渉を取り持とうとする外交的努力が行われた。
 しかし、最後の土壇場での、ダーレルスによる、英国がヒットラーに次ぐ人物と会って欲しいとの懇願は、<英国によって、>「ネズミどもめ(Rats)!」という一言で却下された。・・・
 ヒットラーは、9月1日に、「ドイツ人種における内なる脅威を浄化するため、障害を持った、或いは慢性病に罹った者」70,000人を殺害するよう命じた。・・・
 <そして、同じ日にポーランド侵攻を敢行したのだ。>
 この10日間、我らの<チェンバレン>首相がいかなる緊張の下に置かれたかは説明する必要はあるまい。
 <彼は、>「私は、断崖絶壁に沿った狭い曲がりくねった道路を鈍重な自動車を運転している男のように感じる」と妹のヒルダ(Hilda)への手紙に書いた。
 「目がくらむだろうから、私は下を見下ろそうなどとはしない」と。・・・」
(D)
 1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻(と17日のソ連のポーランド侵攻)が図解入りで簡潔に下掲↓で説明されていますのでご覧下さい。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/8232560.stm
(9月4日アクセス)
 また、9月1日午前4時45分に開始された、ポーランド領のダンチヒ(Danzig)自由港へのドイツ軍の海空陸からの攻撃に対して、ポーランドの守備隊がいかに奮闘したしたか、下掲↓
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/8225093.stm
(同上)をお読み下さい。
 (3,400人のドイツ軍が200人から400人戦死したのに対し、ポーランド軍は182人中15人から20人が戦死するという戦いでした。
 なお、ポーランドに対してなされた最初の攻撃の時刻は午前4時40分であり、内陸部のヴィールン(Wielun)に対する空襲です。1,300人近くのポーランド人が死亡し、この町の約75%が破壊されました。)
6 英国による宣戦布告
 「英国とフランスは、ヒットラーがブラフをしてポーランドから利権を得ようとしていると思って<おり、まさか本当に攻撃するとは思ってもみなかった>。・・・
 ・・・英国の駐独大使のサー・ネヴィル・ヘンダーソン(Nevile Henderson)が最終的に英国の最後通牒を9月3日に届けた時、ヒットラーは唖然とした。・・・
 その同じ夜、ヒットラーは、英国とフランスは、ジャガイモ戦争(Kartoffelkrieg=potato war)、つまりは、経済封鎖だけの戦争しかしないだろうという見方に切り替えた。・・・」(D)
7 小さい戦争か大きい戦争か
 「我々が知っていることで、オヴァリーも否定しないのは、チャンバレンにはポーランドを助けてドイツ軍を撃退するつもりなどなかったということだ。
 英国とフランスは、部隊を動かして西方から<ドイツを>攻撃しようとはしなかった。
 両国とも、ドイツの都市はもとより、飛行場すら爆撃しようとはしなかった。
 エイマリー(前出)が焼夷弾を黒の森(Black Forest<=Schwarzwald。南西ドイツの山岳森林地帯>)に落とすことを示唆した時、空軍相のキングスレー・ウッド(Kingsley Wood)は、それは私有財産<地域>だと抗議した。
 英空軍は、その代わり、数千枚のビラを落とした。・・・」(C)
 「・・・1939年の時点では、もはやヒットラーを殺すしか、ヴェルサイユ平和条約を救う方法はなかったのだ。
 総統は、何が何でも戦争がしたかった。
 スターリンと話をつけた以上は、ポーランドは、自国が<完全に>破壊されることを受忍しない限り、領土の独ソによる分割を避けることは不可能だった。
 むしろ問題は、どんな種類の戦争がどの国とどの国との間で戦われるかだった。・・・
 <すなわち、>ヒットラーが欲したような小さな地方的戦争になるのか、それとも、彼が数年先に繰り延べたかった欧州の支配をめぐるより幅広い競技になるのか、<どちらの種類の戦争になるのか、ということだ>。
 名誉と国益が、英国と、より神経質なフランスとを後者へと踏み切らせた。
 しかし、オヴァリーが丁寧に説明するように、結果的には、少なくとも短期間は、名誉をかなぐり捨てていた場合の戦争と同じ戦争が続いた(注1)。
 (注1)「1939年9月から1940年5月までに、フランスとドイツの間で本格的な軍事衝突はなく、宣戦布告のまま睨み合いが続いた。フランスのジャーナリスト、ローラン・ドルジュレはこの状態を「奇妙な戦争」と呼んだ。(英語圏ではphony war:まやかしの戦争と呼ばれる)
 <ただし、その間、>両空軍の小規模な衝突はいくつか起こっ<ている。>」
(太田)
http://www.sky.sannet.ne.jp/mfumio/newdrole.htm
 どの国もポーランドを助けようと奮起などしなかった。
 <こうして、>ヒットラーとスターリンはポーランドを分割した。
 そして、総統が1940年に西方でもう一つの戦線を開く決定を下した時点で、ようやくポーランドの同盟諸国は<本格的>参戦をしたのだ。・・・
 <このように、宣戦布告は意味を失いつつあった。これは、それまでのような外交官の役割もまた失われつつあることを意味した。>
 <実際、>米国にとって最後の<宣戦布告>になったのは、1942年のルーマニアに対するものだった(注2)。・・・」(A)
 (注2)例えば、1950年の米国の朝鮮戦争への参戦は、議会の関与が全くない形で行われたし、2001年の対アフガニスタン戦も2003年の対イラク戦も、米議会の、宣戦布告決議ならぬ兵力使用決議に基づいて行われた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Declaration_of_war_by_the_United_States
 あえて言うが、日本の(英領マライ半島に対する攻撃や)真珠湾攻撃が宣戦布告の前に行われたとか、日本は結局正式の宣戦布告を米国に対して(も英国に対しても)行わなかった
http://www.geocities.jp/torikai007/pearlharbor/1941.html
(↑これは、ビジュアルにも読んで面白い。一読を勧める。)
といった議論は、当時が宣戦布告なるものが急速に姿を消しつつあった時期であったことを考えれば、余り意味のない、ためにする議論であると言えよう。
(太田)
8 終わりに
 
 「ネヴィル・チェンバレンは、英国によるノルウェー<のドイツからの>解放努力が失敗し、議会内であらゆる方面から攻撃を受けるに至って、1940年5月に<首相を>辞任した。彼は、ウィンストン・チャーチルにとって代わられ、チャーチルは戦争終結以降までこの職にとどまった。
 チェンバレンは、辞任後、6ヶ月目に大腸癌で死亡した。」
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/devon/8234049.stm
(9月4日アクセス)
 これは、心労が重なった末の、一種の戦死であったと言えるのかもしれません。
 チェンバレンの命を縮めたヒットラーの最後はどのようなものだったのでしょうか。
 既にご存じの方も多いでしょうが、関心あらば、改めて下掲↓をお読み下さい。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/8234018.stm
(同上)
(完)