太田述正コラム#3509(2009.9.7)
<チャーチルの第二次世界大戦(その1)>(2010.1.23公開)
1 始めに
タイトルを見て、またかよと思われた方もおられるでしょうが、まあ、ドンマイドンマイ。
チェンバレンとくれば、次はチャーチルですよね。
ちょうど、英国人のマックス・ヘースティングス(Max Hastings)が‘Finest Years: Churchill as Warlord 1940-45’を上梓したところなので、先の大戦において、チャーチルがいかなる戦争指導を行ったかを、この本の書評等を通じてご披露しておきたいと思います。
コラム#2127~2129で、へースティングスの前著をご紹介したことがありますが、彼もまた、つい先だってコラム#3493以下で登場したロバーツ同様、「英国の大衆が抱いている、もしくは抱きたいところの、先の大戦観」を抱いていることを、コラム#2129で私は指摘したところです。
このことも念頭に置いて、以下をお読み下さい。
A:http://www.ft.com/cms/s/2/e6824d52-98e2-11de-aa1b-00144feabdc0.html
(へースティングによる自評。9月5日アクセス)
B:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article6811041.ece
(書評。9月5日アクセス。以下同じ)
C:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/6132920/Finest-Years—Churchill-as-Warlord-review.html
2 チャーチルがダメだった点
「・・・ヒットラーが電撃戦(blitzkrieg)をフランスに対して開始した数時間後に、チャーチルは首相となったが、当時の英国で彼の<軍事指導者としての>天才ぶりを疑う人はいなかった。・・・」(A)
「・・・<しかし、>言わでもがなの話だが、チャーチルの<戦争指導の>実績は完全からはほど遠かった。・・・
チャーチルは、しばしば状況を悪化させた。
例えば、1940年6月に<フランスの>シェルブール(Cherbourg)に2回目の英遠征軍を派遣することに固執し、結局すぐにそこから撃退されてしまった。・・・」(C)
「・・・この失敗はほとんど知られていない・・・
この遠征軍の司令官のサー・アラン・ブルック(Alan Brooke)が頑固なまでに主張を続けたおかげで、かろうじてこの首相の無謀な衝動性は乗り越えられ、やむなくチャーチルは撤退に同意した。
こうして、さもなくば、失われていたであろうところの、20万人に近い男達が、ドイツ軍がフランス軍を片付けることに大わらわであった間に、北西フランス<のブルターニュ地方>のいくつかの港から撤退することができたのだ。
<これは、>第二のダンケルクと呼<んでよかろう。>第一同様に奇跡的で決定的なことだったからだ。・・・」(A)
「・・・しかし、<チャーチルは、>それに懲りずに、勝つことなど到底おぼつかないというのに、ドデカネス諸島(Dodecanese<。エーゲ海南東部に点在するギリシア領の島々。>)への作戦を敢行させ<たが、1943年9月から11月まで続いたこの戦いは、先の大戦中の最後となるところの、ドイツ軍の大勝利で終わり>・・・」(C)、「連合国の戦力を消耗させた。・・・」(B)
更には、彼は、特殊作戦司令部(Special Operations Executive)に対し、「欧州を燃え立たせよ」と命じたが、怒ったナチスによる無辜の人々への報復を引き起こしただけであったところ、彼は、英国が送り込める能力を超える要員を送り込むように求めた。・・・」(C)
「<上述のドデカネス諸島の戦いの時もそうだが、>彼は、 パンテレリア(Pantelleria<。シチリア島とチュニジアの間に位置する島>)(注 1)やスマトラ(注2)といった、どうでもよい島々を奪取することにこだわったものだ。
(注1)1943年6月に、英軍と米軍が、同島を攻撃し、イタリア守備隊を降伏させた(コルク栓抜き作戦=Operation Corkscrew)。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Corkscrew
(注2)1944年4月に英軍と米軍が艦載機によってスマトラ島北端沖のサバン(Sabang)島の日本の軍施設および油田施設攻撃を行ったコックピット作戦(Operation Cockpit)は大成功を収めている
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Cockpit
ので、恐らく、1945年1月に2回にわたって、スマトラの日本の2つの精油所に対して英軍が艦載機による航空攻撃を実施した、メリディアン作戦(Operation Meridian)を指しているのだろう。ここでは、作戦目的は達成したが、英軍も多数の航空機を失っている。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Meridian
また、彼は、水陸両用作戦にもこだわりがあり、その結果1942年のディエップ強襲(Dieppe Raid)の大失敗(注3)を生んだ。
(注3)1942年8月19日、英海軍と英米空軍がドイツ占領下のフランス北岸のディエップに対し、強行偵察を兼ね、沿岸防衛施設、港湾、その他の戦略的建造物を破壊しようとして強襲をかけたが、失敗に終わった。しかも、上陸した6000余りの兵士(主力はカナダ兵)の6割は死傷するか捕虜となり、英海軍も500数十人の死傷者を出し、英米空軍は100機以上を失う(ドイツ軍は48機しか失わず)、という大損害を受けた。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dieppe_Raid
幸いにも、ノルウェー北部に<英軍を>上陸させようという彼の企図は、それが「北極圏でのガリポリ(Arctic Gallipoli)」<(コラム#2917、3457)>となるのを恐れた、チャーチルの軍事顧問のイスメイ(Ismay)大将(前出)ら<の働きかけ>によって中止となった。・・・
<また、>彼は、イタリア経由で欧州へ進撃するという高く付く戦略にしがみつき、ノルマンディーからの侵攻に逡巡し続けた。・・・」(B)
「・・・ヘースティングスが、エル・アラメインにおける勝利直前の1942年の秋、チャーチルは首相を続けられるかどうかの瀬戸際だった、としていることは正しい。
というのは、英国の人々は、敗北の連鎖・・とりわけその年の2月のシンガポール陥落・・に怒っており、(アンソニー・イーデンを含む)内閣の同僚達は、チャーチルが実質国防相として軍事的意思決定を行ってきた権限を彼から奪うにはどうしたらよいかという謀を行い始めていたからだ。
仮にエル・アラメインでの戦況がおもわしくなかったとすれば、チャーチルが、運転席にすわる形の首相から、取締役会会長のような首相へと強制的に矮小化される可能性は大いにあったのだ。・・・」(C)
「・・・東欧における新たなソ連流専制政治の押しつけを行ったスターリンに対するチャーチルの辛辣な気持ちは非常に大きいものがあったことから、彼は、英軍参謀総長に対し、考えられない作戦(Operation Unthinkable)計画を立案するよう命じた。
これは、連合国の47個師団とヒットラーの陸軍の残りをもって<奇襲>攻勢をかけ、ソ連をポーランドから駆逐しようというものだった。
しかし、彼は、すぐにこれが幻想でしかないことを自覚することを強いられる・・。・・・」(A)
(続く)
チャーチルの第二次世界大戦(その1)
- 公開日:
「チャーチルの第二次世界大戦」の
「その1」から「その3」まで、
一気に読ませて頂きました。
マックス・ヘースティングスは、
チャーチルを「偉大」とみなしているようですが、
そうした評価には、たしかに再検討が必要でしょう。
「その1」では、チャーチルが犯した「小さな失敗」が
取り上げられています。
「シェルブール」「ドデカネス諸島」
「ディエップ強襲」などでの失敗です。
しかしながら、チャーチルの最大の問題は、
「その3」で取り上げられている「大きな失敗」でしょう。
「第二次世界大戦は、「正義の戦争」だった」とか、
あるいは「「米英ソ」という「民主主義連合」が、
悪のファシズム諸国を打倒した」といった、
「英米史観」が歴史を支配する限り、
「偉大な戦争指導者チャーチル」という評価に、
修正が加えられることは、難しいと感じました。