太田述正コラム#3515(2009.9.10)
<縄文時代は男女平等?>(2010.1.26公開)
1 始めに
 「・・・少なくとも、条件が厳しく母親達が自分達の子供達を生かしておくこ
とに髪を振り乱さなければならない、いくつかの非欧米文化の社会では、逐次的
単婚主義(serial monogamy)は男が策略を用いて女に押しつけるという意味で
の男の専売特許ではない。
 その反対に、・・・タンザニアのピムブゥェ(Pimbwe)の人々の中では、逐次
的単婚で一夫多妻制のようには見えず、進化心理学者の何人かがほとんど幻想で
あるとしてまともに取り合わない戦略的獣であるところの、一妻多夫制・・一人
の女性が複数の番(つがい)を最大限に活用する・・のように見えるものが存在
する。・・・
 ピムヴゥェの女性達は、経済状況が上下するにつれて、戦略的に、男性達を選
び、男性達を捨て、男性達と再婚する。・・・
 ・・・あらゆる文化において、女性が、機能していない<番>関係を解消する
力(capacity)は極めて過小評価されてきた・・・。・・・
 ピムブゥェの人々は小さな村々に住み、持ち物は余り持たず、農業、漁業、狩
猟、採集によって細々と生存するのがやっとの生計を立てている。・・・
 ・・・婚姻は特定の儀式の取り合わせによって公式化されることはないし、婚
姻は片方のどちらかの配偶者が去ることによって解消される・・・。
 公式的な性的な労働の役割分担もあまりない。
 ・・・農業について言えば、男性達も女性達もほとんど同じような仕事をす
る・・・。男性達も料理をするし、子供達の面倒も見る・・・。
 男性達が女性達よりもはるかに資源の大きな割合をコントロールしているとこ
ろの欧米や、女性が完全に彼女たちの夫の富に依存し、離婚にあたっても足の不
自由な山羊くらいの権利しかないところの中東とアフリカとは違って、ピム
ブゥェの女性達は独立した活動者(operators)であって資源を十分に持ち、男
性達と同等なのだ。・・・
 ・・・何度も結婚するピムブゥェの女性達の子供達が比較的うまくやっている
のは、子供達が面倒を見てくれる拡大された取り巻きを持つに至るからだ。・・・」
http://www.nytimes.com/2009/09/01/science/01angi.html?hpw=&pagewanted=print
(9月1日アクセス)
 このニューヨークタイムス掲載の科学記事↑を読んだ時に思ったのは、ピム
ブゥェにおける男女の番の姿は世界的には圧倒的少数派であるところ、日本の本
来の男女の番の姿、つまりは、私の言う縄文モードにおける男女の番の姿・・に
そっくりだなということです。
 以下、その検証です。
2 縄文時代
 「・・・春成秀爾氏は、「古い段階ではすべて母系的な妻方居住婚であった
が、東日本では中・後期の双系的な選択居住婚の時期を経て、後期末・晩期には
父系的な夫方居住婚が優勢な社会へと移行した」とする。縄文後期末には父方優
勢な双系婚となったが、それ以前は母系社会であった。
 ・・・
 縄文社会が母系社会であったことは、茨城県取手市の中妻遺跡の縄文人骨の
DNA分析から確認されるのみならず、縄文社会の特徴を色濃く残存させるアイヌ
社会からも確認できる。
 アイヌ家族は、「妻方居住婚」(夫が妻の世帯に同居)であり、夫は「妻の共
同体に婿入りし、妻の両親の家に住んで、しばしば彼らのために何らかの労働を
提供」した。従って、その先祖と思われる縄文人の婚姻も妻方居住婚であるとい
えよう。・・・」
(春成秀爾「総合的、根源的学問論の構築-縄文文化と現代」の引用の孫引き)
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/12/000655.html
(9月2日アクセス)
→縄文文化は母系的な妻方居住婚、弥生文化は父系的な夫方居住婚であると言え
そうでしょう。(太田)
3 平安時代
 「平安時代の結婚制度の特徴として招婿婚と一夫多妻制というのが挙げられ
る。招婿婚とは婿を招く結婚形態のことをいう。招婿婚とは婿を招く結婚形態の
ことを言う。また、一夫多妻制は夫が多数の妻妾を持つことである。
 その多数の妻妾の中で特に地位や権威が高く他の妻達をうまくまとめることの
できる女性は正妻となり男の邸に入り、家刀自として家全体の経営を行うのであ
る。・・・
 当時の結婚生活は男女がそれぞれ別々に生活し夫が妻の家へ通う「通い婚」が
一般的であった。・・・
 当時は・・・、男性も女性も経済的に独立していたので、比較的自由に行われ
ていた。なので、結婚において重要なのは経済力ではなく愛情だったのである。
つまりすべては男性と女性の心のままにつながったり、切れたりするのであっ
た。・・・」
(江守五夫「婚姻の習俗」の引用の孫引き)
http://www.asahi-net.or.jp/~tu3s-uehr/kisoen-01.htm
(9月2日アクセス)
→貴族の間の話・・源氏物語の世界!・・なのか、社会全体の話なのか、ちょっ
と判然としないところがありますが、私の言う第一次縄文モードの平安時代で
は、妻方居住婚が勢力を吹き返しつつも父系社会化が進行していたようですね。
 なお、一夫多妻制とは言っても、誰かの正妻となるまでは、女性中心の事実上
の一妻多夫制であったという見方もできますし、離婚が比較的自由だったようで
すから、長期スパンで見れば、いずれにせよ、一妻多夫制であったとあながち言
えないこともなさそうだと思いませんか。(太田)
4 江戸時代
 「・・・現在、離婚が増えていると巷間では騒いでいるが、明治前期の離婚は
すこぶる多い。現在の離婚率は、増えたといっても1パーセント台だが、明治初
期には4パーセント近かった。これは江戸時代の離婚の多さを反映したものだと
いわれる。・・・
 江戸時代は、男尊女卑の家制度によって、女性は圧倒的に不利な状況に置かれ
た。女大学に見るように、夫こそ天であり、主人であると諭されたが、実態はど
うも違うようである。武士階級にあっては、妻は持参金を背景に強い発言力を
もっていたし、彼女たちは離婚をも厭わなかったという。
 武士階級の離婚率は、10パーセントという高率で、しかも女性の再婚率は50
パーセントを超えていた。「貞女二夫にまみえず」といったことは、男性の願望
にしか過ぎなかった。庶民に目を転じれば、女性の優位がいっそう増すのは当然
である。女性は自らが貴重な労働力であるから、軽い扱いを受けていたはずはな
い。・・・
 夫婦双方での協議離婚が主流であり、夫からの追い出し離婚だけで、江戸時代
を見るのは誤りである。・・・現在の離婚条件よりも、はるかに女性に有利だっ
た。・・・
 働かなくてもすむ専業主婦はいなかったので、すべての女性は労働力だった。
未婚・既婚を問わず、江戸時代の女性たちはよく働いた。働き手である限り、女
性の存在が軽んじられることはあり得ない。むしろ明治の中頃になって、民法に
よって家制度が敷衍され、男尊女卑が強制されたことによって、女性の地位は厳
しいものになったのである。・・・」
(「三くだり半と縁切寺」(著者:高木侃)の書評の引用の孫引き)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=158029
(9月8日アクセス)
→最後のくだりは、明治維新以降、弥生モードに入ったと私が言っていることと
符合しますよね。(太田)
 「・・・
●江戸時代の庶民の間ではいまだ村内婚が多かった。
村落内の結婚では、若者組や娘組が婚姻に適した年齢の男女を集わせ、男女の結
びつきを取り計らった。祭りの夜など特定の時間を設定したり、「若者宿」と
「娘宿」と呼ばれる各宿を訪れあったり、出会いの場を設定したりした。
●若者たちの間で男女の結びつきが執り図られる結果、婚礼の席に当人たちがい
ない場合がしばしばみられた。すなわち、実質的な男女の結びつきは既に済んで
しまっているので、婚礼は両家の人々の確認と挨拶にすぎない。
一 村内婚と婿入婚
古い形の結婚は<婿入>であった。婚礼を嫁方であげ、以後一定期間婚舎を嫁方
におき、昼間は婿の家で共に働くが、夜は嫁の家で泊まった。これは<村内婚>
を基盤として成立した。
二 村外婚と嫁入婚
交通の発達と経済の発展に伴い地域間移動が盛んに行われ、生活圏が拡大してく
ると、結婚の形態も変化してくる。武家の遠方婚姻が嫁の引移りを早くしたのと
同じ事情がはたらき、他方、家族労働を中核として小経営の独立化が進んだ結
果、嫁とりの意義が家の経営にとってきわめて重要となった。
こうして、嫁が婿方に引き移る<嫁入婚>が一般的となった。・・・」
(縄田康光「歴史的に見た日本の人口と家族」の要約引用の孫引き)
http://blog.katei-x.net/blog/2008/05/000544.html
(9月8日アクセス)
 「・・・封建制度と男尊女卑の思想に女性は虐げられ続けてきたのであって、
その出発点は江戸時代にあったと理解されている。が、これは大きな間違いであ
る。・・・」
(新書マップ「江戸時代の結婚・家庭・女性」読書ガイドの引用の孫引き)
http://www.jinruisi.net/blog/2007/08/000228.html
(9月8日アクセス)
 「江戸の女子教育は、手習いの段階から男よりも水準が高かった。中小の商工
業では、女性の果たす役割が大きいため、女子教育が重要になり、日本橋、赤
坂、本郷などは女子の就学数のほうが多かった。当然の成り行きとして、女師匠
(女性教師)がすこぶる多く・・・・(中略)・・・・<女筆指南>の看板を上げた
女専門の師匠も多かった。・・・(中略)・・・・また、女子教育と男子教育の
最大の違いは、男は職業を覚えることが優先されているため、手習いも適当なと
ころで切り上げて就職させることも多かったが、女子は、読み書きだけでなく芸
事やさらに高い教育を身につける必要があった。・・・」
(石川英輔「大江戸生活事情」の引用の孫引き)(同上)
→私の言う第二次縄文モードの江戸時代も、とりわけ農工商では母系的な妻方居
住婚が基調であったようですね。(太田)
5 参考
 「・・・日本の婚姻は南北2つの系統に由来するニ類型に分ける立場をとって
いる。南方系の「一時的訪婚」と北方系の「嫁入婚」である。
 一時的訪婚とは婚姻当初の一時期、夫妻が別居し、この間夫妻の一方が他方を
訪問することによって夫婦生活を営みしかるのち妻が夫家に引き移るものであ
る。民俗学では「婿入り婚」と呼んでいる。一時的妻問い婚と著書では呼んでい
る。「足入れ婚」「女夜這い婚」「寝宿婚」もこれに類する。一方嫁入り婚は文
字通り嫁が家に嫁ぐという形をもって婚姻が成立する。
 前者にあっては、配偶者の選択が成人男女の自由な交遊をとおして行なわれ、
若者組や娘仲間と彼らとの寝宿が、その婚前交遊の機会を保証するのに対して、
後者においては、一般に男女間の接触を禁圧する性的離隔の規範のもとに家族員
の婚姻配偶者はもっぱら家長の意思によって決定され、家長の委託を受けた仲人
がその選択に携る。
 またその社会的な基盤としては前者が、若者組、中老、長老という年齢階梯制
が編成されるのに対して、後者では家父長制的な家族が前面に現れ、親族の有り
方は前者では双系的な範囲で親族的交際が営まれるのに対して、後者では父系的
親族集団の組織のみが婚姻後の集団として営まれる。・・・
 <前者は>南は中国江南からインドシナ方面にかけて居住する諸民族において
であり、後者は中国北部やシベリア東北端の諸民族において現在でも見られる形
態である。・・・」
http://www.financial-j.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=23225
(9月2日アクセス)
→最後のくだりですが、弥生人が「中国江南」からやってきたとすると、話が逆
になってしまうのが悩ましいところですね。どなたかこのあたりを解明していた
だけないものか。(太田)
6 終わりに
 昭和の戦間期に日本は第三次縄文モードの時代を迎えるのだけれど、先の大戦
を挟んだせいで、その前の弥生モードの時代の男尊女卑の考え方がいまだに根強
く残ってしまっている、とかねてから私は主張してきたところです。
 どこの家庭でも、財布は奥さんが握っていて、奥さんの実家との絆の方が強
い、というのが通例のようですから、その限りにおいては、現在の日本では、男
女の番のあり方は、まぎれもなく縄文モードなんですがね