太田述正コラム#3744(2009.1.2)
<映画評論0(その3)>(2010.2.2公開)
ここは、何かを引用しながら話を進めたいと思って連載を一時中断していたら、すぐに次のような論考が向こうの方から飛び込んできてくれました。
「・・・<昨年、>ローランド・エメリッヒは、<『2012』で>ヒマラヤを洪水にし、たくさんの都市を大洋に引きずり込まれさせることで、大天変地異の規模を更に高めた。・・・
イスラム教、ユダヤ教、そしてキリスト教は、時の終わりに救世主的人物が登場し、我々が住むこの世界の泥濘、暴力、そして不正義を洗い流し、ユートピア的清浄の新しい時代を拓くという観念を共有している。
(我々の大部分にとって残念なことに、シナリオの大部分は、甘い聖なる時代が到来する前に、清めの戦争と大天変地異の嵐が吹きすさぶという内容になっている。)・・・
イラクのシーア派の指導者のムクタダ・アル=サドルは彼の民兵を「マーディ<(救世主)>軍」と読んだ。
いくたびもの演説の中でサドルは、イラクにおける戦争はマーディが近々再出現する舞台を整えつつあるとの観念にしばしば言及してきた。
これは、イラン革命家達の1979年における似たような主張のこだまのごとき感じがする。・・・
・・・ユダヤ人達が嘆きの壁で祈ったりイスラム教徒達が岩のドームで崇拝をしたりしている場所<(エルサレム)>に<キリスト教徒のための>第三の神殿が建設されるまでは、自分達の救世主は現れることができないと・・・信じるキリスト教原理主義者達<がいる>・・・。
このキリスト教「ディスペンセーショナリスト(dispensationalist)」の諸集団のうち特に目立っているのが、潜在的な大統領候補であるサラ・ペイリン・・彼女は、アラスカ州知事室に誇らしげにイスラエルの旗を掲げていたものだ・・の教会であるアセンブリーズ・オブ・ゴッド(Assemblies of God)だ。
キリストの再臨の際に顕れるとされる瑞祥(Rapture)を信じる者達が米国の政治をコントロールしている、とまで言うのはいささか大げさというものだが、シオニスト達と、宗教的経験によって信仰を新たにした(born-agian)米国のキリスト教徒達・・その終末論的見解は聖なる地におけるユダヤ人達の再集結に特に目立った位置づけを与える・・との間の同盟は、疑う余地なく、近年の米国政府の中東政策に対し、不均衡に大きな影響力を行使してきた。・・・」
http://www.foreignpolicy.com/articles/2009/12/31/reality_check_dancing_the_apocalypso?print=yes&hidecomments=yes&page=full
(1月2日アクセス)
この論考の中に出てくるディスペンセーショナリズムについて、広島経済大学の山本貴裕は次のように記しています。
「・・・<米国>では1995年から2004年にかけて、あるフィクション・シリーズが計十二巻出版され、第一巻の650万部を筆頭に、これまでに延べ6,200万部以上の記録的な売り上げを達成し、大人向けのこの種類のものとしてはアメリカ出版史上空前のヒットへと成長している。
テイム・ラヘイ (Tim LaHaye) とジエリー・ジェンキンズ(Jerry Jenkins) の共著による「レフト・ピハインド (Left Behind)」シリーズ(以下LBSと略記)である。・・・
LBSの<米国>観は、「ディスベンセーショナリズム (dispensationalism)」と呼ばれる神学に基づいている。
この神学は「福音派 (evangelicals)」または「原理主義者 (fundamentalists)」の伝統の重要な一部であ<る。>・・・
<ディスペンセーショナリズムは、米国が反キリスト教国かキリスト教国かで揺れ動いているが、前者のウェートが高いところ、ディスペンセーショナリストの中には、9.11同時多発テロは、米国の>世俗化・・・<すなわち、>米市民的自由連合(American CivilLiberties Union) や中絶提供者、同性愛者の権利の支持者、学校の祈祷に関する連邦裁判所の判決などにより、霊的に・・・<米>国民<が>・・・弱体化した<こと>・・・への「神の審判」である・・・という主張<を行った者すらいる。>・・・
<その後、>ディスペンセーショナリストを多く含む福音派・原理主義者はブッシュのイラク侵攻・再建を支持することで、より愛国主義的で楽観的な後者の見解と完全に一体化してしまったかのようである。
だがその一方で、彼らの反キリスト教国<たる米国>論は・・・ひそかに生き続けてい<る。>・・・
<このひそかに生き続けている考え方を描いたとも言いうるLBSによれば、やがて、>神の起こした世界規模の大地震により、エルサレムを除く地球の表面全体(<米国>を含む)が平らにされる。
その後、神は諸国の審判に入る。
神はまずユダヤ国民を神の民として復権させ、その他の諸国民については、神の民に栄誉を与えた「羊」と、栄誉を与えなかった「ヤギ」とに振り分ける。生き残った少数のキリスト信者は、前者として選別され、神の民とともに<千年王国>に入ることを許される。
その一方で、その時点まで何とか生き延びた数百万単位の不信心者は、後者として選別され、地獄へと送られる。
こうして<米>国民も二分される。
そして<千年王国>においては、<米国>を含めた諸国はキリストの支配下に置かれるのである。
ディスベンセーショナリズムにしたがえば、この時点で初めて「キリスト教国<たる米国>」が誕生することになる<というのだ>。・・・」
http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/bitstream/harp/2324/1/kenkyu2006280403.pdf
米国のキリスト教原理主義の中で最も先鋭で、最も大衆的基盤を有するディスペンショナリズムなどという代物については、ディスペンショナリスト達から敵視されているリベラリズムないし世俗化の象徴たるニューヨークタイムスやワシントンポスト等の本紙が取り上げることなどまずありません。
しかし、映画は大衆の消費財であり、米国で売ろうとしたら、ディスペンショナリストをその前衛とするキリスト教原理主義的な米国大衆にアッピールするテーマをぶつけなければならない。
そこで、エメリッヒらは、ディスペンショナリズム的な終末論をテーマとする映画をつくったということである、と考えるべきなのです。
また、それはユダヤ人はもとより、シーア派を中心として、イスラム世界の人々にも大いにウケる可能性があるテーマでもあるわけです。
(続く)
映画評論0(その3)
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