太田述正コラム#3746(2009.1.3)
<映画評論0(その4)>(2010.2.3公開)
そこで、以上のような構図を踏まえて、改めて『2012』を読み解いてみましょう。
(どうしても、ネタばれに近い感じになってしまいますが、やむを得ますまい。)
世界中から、生き延びるべき、ごく少数の「信心者」が選ばれます。
映画では、キリスト教徒というよりもう少し、幅を広げているわけですが、これはポリティカルコレクトネスの観点、及びマーケティングの観点からそうしている、ということでしょう。
しかし、「信心者」が選ばれる基準が面白い。
残すべき遺伝子を保有していると見なされる人々・・各国ごとのごく少数の政治指導者達が方舟に乗船するのは、彼等がかかる範疇に属するということなのでしょう・・と(方舟の建設費の一部に充当される)天文学的な額の乗車券を買った人々・・いわば市場における勝利者・・の2種類です。
(このほか、方舟らしく、各種動物の番も収容するのですが、この点は深入りしないでおきましょう。)
これは、優生学的偽科学に立脚した人種主義と市場原理主義によって「信心者」、すなわちエリートが選別される、ということであり、私が指摘しているところの、米国の国のかたちがモロに投影されているのです。
この中で、この方舟プロジェクトの中心的役割を果たすのは、米国の政治指導者達であり、米国は選民中の選民としての役割をエメリッヒによって割り当てられており、最大のマーケティング対象たる米国大衆の気持ちをこれによってくすぐっていることになります。
いや、それどころではありません。
米国の政治指導者のトップたる大統領は、方舟に乗り込まないという決断を行います。
それは、エメリッヒがこの黒人米大統領をキリストに擬していることを意味します。
どうしてキリストか?
世界の終末には神の子キリストが再臨するわけですが、その役割はディスペンショナリスト的には「信心者」と「不信心者」の選り分けと前者を天国に誘うことでしょうから、その選り分けの基準をつくり、方舟計画・・「信心者」を天国に運ぶ計画・・の総責任者となったこの黒人米大統領はキリスト以外の何者でもないはずだからです。
念の入ったことに、それだけではまだピンとこないかもしれない一部の米国大衆に対し、この大統領に死を選ばせることで、この大統領がキリストであることをエメリッヒは、畳みかけるようにして悟らせているのです。
結局、エメリッヒは、米国大衆に二重に胡麻を擂っているわけです。
なぜなら、キリストたる、(と言ってマズければキリストが憑依するところの、)米大統領を選ぶのは米国大衆だからです。
しかも、エメリッヒは、オバマという黒人を米国大衆が大統領に当選させることにかけた。
だから彼は、この映画で米大統領を黒人にしたのです。
しかし、そうなると、キリストがどうして、約2000年前の死に続いて、二度目の死を迎えなければならなかったのか、が説明できなければならない。
一回目は、キリストは、人間の原罪を贖うために死んだわけですが、今度は人間のいかなる罪を贖うために死んだのか、ということです。
ここから先にこそ、『2012』の本当のテーマが隠されているのです。
私の言葉で語らせていただけば、キリストたる米大統領は、米国民が、米国がタテマエとして掲げるアングロサクソン的理念に反し、人種主義的帝国主義と市場原理主義をホンネでは追求し、米国が世界覇権国となることで、全世界をかかるホンネで汚染した、という原罪を贖って死ぬのです。
つまり、エメリッヒは、米国大衆に対し、ディスペンショナリストを前衛とする米国のキリスト教原理主義者が広汎に抱いている人種主義的帝国主義・・黒人差別は止めたかもしれないが、ユダヤ人の逆差別やキリスト教原理主義者の逆差別という人種主義の変形が維持されている・・と市場原理主義は誤りであることを密かに訴えようとしている、というのが私の解釈なのです。
いくら何でも穿ち過ぎだろうって?
いや、決してそんなことありませんよ。
かかる基準による「信心者」と「不信心者」への選別に異議申し立てをする、米国人とチベット人の二組の家族をエメリッヒが登場させたことが、この解釈の裏付けです。
エメリッヒは、注意深く米国人家族の父親を、この映画の主人公格で登場させることで、米国人大衆の気持ちをここでもくすぐると同時に、韜晦を施していると考えられます。
彼等は、家族愛というまことに人間的な、というより動物的な理念を体現して、選別に異議申し立てをするわけです。
しかし、彼等を現実に救うのが、異議申し立てという点では同じでも、彼等よりはるかに高次元の博愛的理念を発露することとなるチベット人家族・・その中にはチベット仏教の高僧の薫陶を受けた僧侶も含まれている・・であることは実にイミシンです。
つまり、人類の未来は、キリスト教的な物の考え方ではなく、仏教的な物の考え方を信奉する人々のものである、とエメリッヒは示唆している、と考えられるのです。
視覚的にものすごい超大作娯楽映画に、このような深刻なテーマを密かに組み込むなどという曲芸的離れ業は、エメリッヒが米国の異邦人であるからこそ思いつき、実行に移すことができたのでしょうね。
(続く)
映画評論0(その4)
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