太田述正コラム#3557(2009.10.1)
<3人の皇帝(その2)>(2010.2.17公開)
3 ニコライ2世
「・・・カーターの練達なる描写において、ヴィクトリア女王は、近代世界の諸現実を殆ど把握できておらずとんでもない判断を下すところの、太った怪物的に利己的な蜘蛛として立ち現れる。
ヴィクトリアは、欧州の王室諸家族が相互に緊密になりさえすれば、そのみんなが友人になることができさえすれば、欧州は幸せで平和な場所になるだろうと信じていた。
それは、称賛に値する目標ではあったけれど、完全に非現実的だった。
これを追求せんがため、彼女は、自分の子供達と孫達に悲惨な結婚を強いた。
暴君であったり単細胞であったり、女性に関心のなかったりした男性を娶されて、数多の不幸な女性が出現した。
ドイツ人たる孫娘のアレキサンドラ(<Alix of Hesse and by Rhine→>Alexandra< Feodorovna Romanova。1872~1918年>)をニコライの妻としたこと以上に悪しき選択は考えることができない。
「愛するアリックス(Alix)」は、はにかみやで神経質で神経衰弱でヒステリーを起こしやすく、小さく庇護的な家族と友人達といる時だけしかくつろげなかった。
ニコライとの結婚を受諾するまでの間、彼女は自分の宗派を変更することとドイツを去ることについて、自らの良心と格闘した。
多くの改宗者達と同じく、彼女は自分にとっての新しい世界に熱狂した。
ニコライの大臣達が彼に諸改革を促すと、いつも彼女は、彼さえよりも、もっと激しく、何世紀もの歴史があるロマノフのやり方を変えることに、何事によらず抵抗した。
更に悪いことには、金ぴかの籠の中で彼等がニャンニャンごっこをする(played ‘hubby’ and ‘wifey’)
http://en.wikipedia.org/wiki/Wifey’s_World (太田)
居心地の良い非現実の世界に彼を包んでしまった。
ある観察者は、「彼等は、「神よ皇帝を救い給え」と優しくハミングする陳腐なサイレン達の甘い歌を子守歌にして、深い淵の上で平和裏にまどろんでいた」と語った。・・・」(B)
「皇帝ニコライ2世は、ウィルヘルムがやったようには権力を奪取しなかった。
彼はそれを遺産相続したのだ。
彼は決して頭が悪くもなかった。
しかし、彼は自分の専制政治を失うことを畏怖し、戦き、意固地にして偏狭だった。
この3人の皇帝達は、それぞれの人格がどれほど歴史を決定的に変えたかを示してくれる。
ニコライは、自分の戴冠式の時、何千もの人々がモスクワ郊外の野原で圧死するという悲劇を正視することを拒否した。
また彼は、最後の偉大なる皇帝主義者たる大臣達を意図的に蔑ろにした。
更に彼は、東方帝国を破滅的に追求し、1904年の日本との戦争を引き起こした。
彼は、反ユダヤ主義的な累次のポグロムの発起人となった。
彼は、自らの議会(Duma)を蔑ろにした。
1914年に和平が彼にとって優先順位第一位であるべきなのに、自らを制止することができなかった。
そして彼は、愚かにも1916年に直接、軍の指揮をとった。
カーターが示すように、ラスプーチン(<Grigori Yefimovich> Rasputin <。1869~1916年>)がのさばったのは症状なのであって彼の失敗の原因ではない。
またカーターは、ニコライのヒステリックでばかげた妻に対し、正しくも歯に衣を着せない。
カーターは、いかにニコライの見ていて辛いほど(agonising)良い行儀が政治的専制者としてはどうしようもない欠点であったかを教えてくれる。
彼は魅力的な従兄弟であり、優しい父親であり、浪漫主義的な殉教者的国王だったが、統治者としては、単に良い意図を持った不運な存在よりもはるかに悪しき存在だった。・・・」(A)
「・・・ニコライの少年時代もさして変わらなかった。
彼の父親のアレキサンドル3世(Alexander 3< Alexandrovich。1845~94年>) は、疑い深く根っから反動的な人物だった。
その子供達は、田舎の古いロシアからも、そして諸都市における新しく産業的なロシアのどちらからも完全に隔離された世界で成長した。
その贅沢ときたら途方もないものだった。
900室もあり何千人もの召使いがいて、宝石に覆われたファベルジェ(Faberge)
http://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Carl_Faberg%C3%A9 (太田)
の装飾具群があったガッチナ(Gatchina)宮殿
http://en.wikipedia.org/wiki/Gatchina_Palace (写真をご覧あれ。太田)
でのクリスマスにおける6つの巨大なツリー・・。
そして、ロシアの宮廷のエチケットもまた圧政的なものだった。・・・」(B)
4 ジョージ5世
「<これら両王室の人々に>比べると、英国の<王室の面々>は、びっくりするほど問題がなかった。
ヴィクトリアのたくさんの手紙は、頑強なまでに思慮のあるものだったし、ウィルヘルムと彼の廷臣達は「太っちょの<プリンス・オブ・>ウェールズ(Fat Wales)」を憎んでいたけれど、カーターは、このエドワード7世<(コラム#309、310、2874)>の利己的なプレイボーイから三国協商の父へという道のりを図示する。
狩猟と切手収集の世界に生きたジョージ5世は、彼の父親に、持ち馬でも、女達でも、体裁の良い友人達においてもかなわなかった。
<もっとも、>賢明にもカーターは、ニコライ2世はジョージ5世よりも名立憲君主たりえたのではないか、他方、帝政ロシアを救えるのは真に例外的に秀でた専制君主でなければ不可能だっただろう、と思い巡らす。・・・」(A)
「・・・ジョージは、早い時期に家を離れて海軍に入らされ、そこで彼は船酔いの惨めな時間を過ごした。
彼は父親のことを恐れ、父親のバレバレの情事に憤った。
彼に対して息苦しいほど異様な愛情とあっけらかんとした無関心とを交互に繰り返した「愛する母さん(motherdear)」を彼は崇めていた。
みんなに愛された兄のエディー<(Prince Albert Victor, Duke of Clarence and Avondale。1864~92年>が突然<インフルエンザによる>肺炎で亡くなった時、彼は、自分が王座の継承者となったことに悄然とした。
(再び、エディーの婚約をお膳立てするために費やした労力を繰り返すのは意味はないと彼の両親が決めた時、彼は<兄の>婚約者を自分にあてがわれたことを発見した。)
「なんとまあ、敬虔で良さそうで弱々しく雄々しいちっちゃな人なんだろう」というのが1910年にジョージが初めて国王としてお目見えした何回のうちの一つの際のマックス・ビアーボーム(<Sir Henry Maximilian> Max Beerbohm<。1872~1956年。イギリスの風刺画家>)の評だ。・・・」(B)
3 終わりに
脇道にそれますが、28歳になったばかりで亡くなったエディーの生涯、
http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Albert_Victor,_Duke_of_Clarence_and_Avondale
短かったけれど、色々考えさせらるものを含んでいることを発見しました。
それはさておき、王制(帝政)を維持することがいかに大変か、この3人の従兄弟達の辿った数奇な運命を見るにつけて痛感しますね。
歴代の天皇の努力のたまものでもありますが、長く続いてきた我が皇室が今後とも続いていくことを願って止みません。
(完)
3人の皇帝(その2)
- 公開日:
はじめまして。当時の外交筋によるとニコライ2世はドイツ皇帝ウィルヘルム2世の妹達の誰かか、ブルボン王家の王女と結婚するだろうという憶測がなされていました。そういう政略結婚をしていれば血友病の皇太子を儲けずにすんだのです。アレクサンドラ皇后は祖母のヴィクトリア女王が孫のクレアレンス公(エドワード7世の長男でジョージ5世の兄、皇太子就任前に病死)妃の第一候補にしていたそうですが、アレクサンドラ公女本人に断られたそうです。アレクサンドラ皇后も英国王妃となり人生を全うする機会があったのです。ジョージ5世は兄の病死で即位し、ジョージ5世妃メアリーは本来クレアレンス公妃となる筈が、横滑りでジョージ5世妃となりました。つまりメアリーでなくアレクサンドラ公女がジョージ5世妃になった可能性もあるのです。ジョージ5世が従兄のニコライ2世一家の亡命を拒絶して、一家を結果的に死に追いやったのですが、上記のような過去のいきさつを当然知っていたでしょう。各国皇太子共に国家の利害関係よりも個人的恋愛感情を優先させて結婚したときに不幸に見舞われるようです。オーストリアのフランツ・フェルディナント大公、エドワード8世もその実例です。人間の運命は本当にわからないものだと思います。