太田述正コラム#3618(2009.10.31)
<キリスト教の歴史(その2)>(2010.2.22公開)
 (3)キリスト教の始まりとその始まりから内包されていた矛盾
 「・・・キリスト教は、<ローマ>皇帝タイタス(Titus< Flavius Vespasianus。39~81年>)がエルサレムの神殿を70年に破壊した後、<キリスト教と>古のイスラエルの宗教の双子の子孫の関係にあるところのユダヤ教と、ほぼ同じ時期に世界に広まった。・・・」(B)
 「・・・キリスト教の中心的難問の一つは、自分自身と同じように神と我々の隣人達を愛せなどという単純な命令が、どうしてかくも多くの苦難と死をもたらしたのかだ。・・・」(H)
 「・・・ここが肝腎なところなのだが、愛のメッセージにもかかわらず、メシア<たるイエス>は、「私は平和をもたらすためではなく、刀を携えてやってきた」と語ったということにマックロックは注意を喚起する。
 この暴力についての約束<への言及>が、我々をして、キリスト教の物語を特徴付けるところの一連の知的、文化的、そして物理的紛争への心を準備をさせる。
 キリスト教は、ユダヤ教徒及びローマ帝国との紛争の中から生まれた。
 <キリスト教の二つの淵源であるところの、>ユダヤ教とエーゲ海からのヘレニズムの浸透、との間には深い亀裂があった。
 <このため、>年を経るに従い、キリスト教が敵対的にして、しばしば内部的と外部的双方の血腥い緊張の渦中に置かれるのを我々は発見することになる。
 帝政ローマにおける迫害の時代、ラテンと正教のキリスト教の東西への大分裂<(後出)>、11世紀における王位<(=神聖ローマ皇帝)>と祭壇(altar)<(=ローマ法王)>との間の紛争<(コラム#1229)>、西方キリスト教における宗教改革時に生じた分裂、そして<キリスト教世界と>イスラム世界との間の諸戦争。・・・」(G)
 このくだりは、「一神教<であるユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教>・・・の様々な規範は、個々人による暴力を防止するには極めて効果的だが、集団的暴力を防止することには余り成功したとは言えない。」というルイス・フライ・リチャードソンの指摘(コラム#3597)のうち、キリスト教がどうしてそうなのかの説明、と受け止めてもよさそうですね。
 (4)東西への大分裂
 「・・・キリストの二重性を巡っての単性論派とキリスト教の多数派の間の諍い・・・」(G)
 「・・・は、5世紀においてキリスト教会を揺るがした。
 どうして人間が神たりうるのか。
 肉体の姿を与えられたキリストの中の二つの人物は、一つは人間でもう一つは神聖なものなのか。
 それとも、そこには、同時に人間でありかつ神聖なものであるところの、単一の本性(nature)があるのか。
 単一の本性というキリスト教教義(Christology)が451年のカルケドン公会議で採択され、これが西方教会の公式教義となった。
 しかし、両性論が東方教会によって受け入れられることはなかった、とマックロックは、欧米における歴史理解の一つの欠缺を埋めてくれるのだが、このくだりは極めて感動的だ。
 彼は、ビザンツ帝国内の独立した司教達が、カルケドンで非難された神学を固く信奉することによって、6世紀までに東方教会が打ち立てられた、と我々に教えてくれる。
 この、礼拝式(liturgy)と精神性(spirituality)において明確に異なるところの、東洋のキリスト教は、驚くべき遠くまで、まずアラビアへ、次いでローマとササン朝ペルシャの世界、更には支那とインドの世界、とを結ぶ陸上路及び海上路に沿って伝わった。・・・」(D)(注1)
 (注1)単性論(Monophysitism)は、エウティケス(Eutyches。380?~456?年)によって最初に提唱された考えであり、キリストの人性は神性によって吸収され、本性は1つとなったと考える。
 この考えは、神性はイエスの福音書に宿り人性は消え去った肉に宿っていたとし、人性においてキリストを生んだ「マリア」は神の母と称されるべきではないとしたところの、ネストリウス(Nestorius)派(景教)の考えに対抗する形で、エジプトを中心に盛んになった。
 ところが、まず東ローマ皇帝テオドシウス2世(Theodosius 2。401~450年)によって、431年のエフェソス公会議(<Ecumenical >Council of Ephesus)においてネストリウス派が異端とされた後、東ローマ皇帝マルキアヌス(Flavius Marcianus。396~457年)によって、451年にカルケドン公会議(<Ecumenical >Council of Chalcedon)において、イエスは神性を持つ(すなわち完全に神である)と同時に人性も持つ(完全に人間である)という考え方をとる両性論派(Dyophysites)が正統とされ、エウティケスの考えを信奉する単性論派(Monosophytes)は異端として排斥されることとなった。
 その後、両性論派は、ローマの教会と東ローマ帝国の国教であった東方正教会に継承され、単性論派は、エジプトのコプト正教会、シリア正教会、アルメニア教会、インド正教会などに継承されて現在に至っている。
 しかし、今日現存する単性論派と呼ばれるキリスト教会は、エウティケスの考えと自分達の考えとは、後者は両性を認めた上でその合一をいう点で異なると主張しており、単性論とは自称しないし、そう言われることを誤解であると考えている。 (太田)
 (以上、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E6%80%A7%E8%AB%96
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E6%80%A7%E8%AB%96%E6%95%99%E4%BC%9A
をベースにして以下で補った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE
http://en.wikipedia.org/wiki/Monophysitism
http://en.wikipedia.org/wiki/Eutyches
http://en.wikipedia.org/wiki/Diophysitism
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E6%80%A7%E8%AA%AC
http://en.wikipedia.org/wiki/Theodosius_II )
 「・・・マックロックの本を他と異なるものにしているのは、このように全球的側面に焦点をあてている点だ。
 他の<キリスト教史の>本は、これまで、お馴染みの欧州の文脈での教会をもっぱら取り上げがちだった。
 マックロックはそうではなく、彼の本の相当な部分を、イエスが生き、そして死んだ中東内及びその周辺についての叙述にあてている。
 つまり、キリスト教会の拡大は欧州だけでなく、そこにおいても起こってしかるべきだったというわけだ。
 マックロックが時代を追って叙述するように、当初はまさにそれが起こったのだが、二つの要素がそれを止めてしまった。
 第一は、シリア、ヨルダン、及びイラクのキリスト教徒の諸コミュニティーは、ローマとコンスタンティノープルのそれらとは対照的に、世俗的支配者達とうまく折り合いを付ける(make accommodation)ことを決してしなかったことだ。
 こうして、法王達や総主教(patriarch)達がこの世の様々な出来事のしがらみに絡め取られる一方で、中東のキリスト教徒達は、我が道を行き、イスラム教が到来した時に脆弱さを露呈してしまった。
 イスラム教は威圧的であり時に非寛容な、<キリスト教の>親戚的宗教だったが、結局、イスラム世界の中心部のキリスト教諸コミュニティーは、ひたすら縮小し、現在はちっぽけな、日常的に迫害され殆ど忘れられた少数派としてかろうじて生息していると言っても過言ではない。・・・」(H)
 「・・・<このようにして、>イスラム教が隆盛となると、キリスト教の東方教会は丸裸にされてしまった。・・・
 その結果、教理(dogma)に突き動かされ、異端狩り志向のアウグスティヌス的(Augustinian)な西方教会(注2)が勝利を収め、より流動的ではあるが、より幅広い東方の諸教会が没落したのだ。
 (注2)アウグスティヌス(Augustine of Hippo。354~430年)は、カトリック教会及び正教会によって聖人視されている上に、プロテスタント諸派の多く、とりわけカルヴィン派によって宗教改革の神学上の父と仰ぎ見られている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Augustine_of_Hippo
 だからマックロックは、西方教会全体の形容詞として「アウグスティヌス的」を用いたわけだ。(太田)
 最も悪いことは、それが、「ローマの司教にその地位以上の発言権(ideas)を与える」ことを可能にした点だ。
 正教会の没落は、この状況を更に悪化させた。
 法王はもはや挑戦を受けなくなっただけでなく、法王庁は偽りの、そして実行不可能な全員の合意なるものを西方教会<全体>に押しつける機関と化してしまった。
 マックロック教授は、このような成り行きになったことがいかにありえないことであったかを示すとともに、彼自身「どの司教であれ、彼が教会の首長であると誤って主張するようなこと」に対して不快感を露わにする。
 単一の教会さえなければ、どんな一人の人間もこんなことを唱えることなどできなかったはずだというのだ。・・・」(I)
 要するに、マックロックは、反正教、反カトリック教会、しかも反プロテスタントであるわけで、この点では、まことに英国教会的というか、イギリス人的である、と言うべきでしょう。
(続く)