太田述正コラム#3628(2009.11.5)
<アラブの近現代史(その1)>(2010.2.24公開)
1 始めに
 アラブの近現代史について、評判の本が出たとなれば、ご紹介しないわけにはいきますまい。
 その本とは、ユージン・ローガン(Eugene Rogan)の’The Arabs: A History;Eugene Rogan’ です。
A:http://www.ft.com/cms/s/2/d823cae2-c4e3-11de-8d54-00144feab49a.html
(10月31日アクセス)
B:http://www.guardian.co.uk/books/2009/oct/31/arabs-eugene-rogan-robert-irwin
C:http://ibookreviews.blogspot.com/
D:http://74.125.153.132/search?q=cache:_b1Ri3qDX84J:www.historybookclub.com/pages/nm/product/productDetail.jsp%3FskuId%3D1049012134+The+Arabs:+A+History%EF%BC%9BEugene+Rogan&cd=56&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
 ちなみに、ローガンは、オックスフォード大学のフェロー兼講師で、同大学の中東センターの所長です。(C)
2 アラブの近現代史
 (1)序論
 「・・・ローガンは、故人であるアラブの知識人のサミール・カシール(Samir Kassir<。1960~2005年。パレスティナ人の父とシリア人の母の下に生まれる。レバノンとフランスの二重国籍者>)
http://en.wikipedia.org/wiki/Samir_Kassir (太田)
の投げかけた問いに答えようとする。
 その問いとは、「どうして我々アラブはかくも停滞するに至ったのか。どうして生きている文化が信用をなくし、その文化の構成員達が惨めさと死のカルトにおいて団結するようになったのか」だ。
 <また、ローガン自身、「・・・>片やアラブの停滞とフラストレーション、片や欧米の民主主義諸国を悩ませているテロの脅威、この両者は実体的なつながりがある」<と指摘している。>・・・」(D)
 だから、アラブの近現代史を欧米の人々は理解しなければならないというわけです。
 この本は、アラブがオスマントルコの支配を受けることになった時点以降のアラブの歴史を扱っています。
 「・・・1517年にオスマントルコ<(コラム#163(太田))>のスルタンのセリム1世(Selim the Grim<。1465?~1520年。初めてカリフを兼ねる。>)
http://en.wikipedia.org/wiki/Selim_I (太田)
が最後のマムルーク朝(注1)の諸スルタンを打ち負かし、エジプト、エルサレム、そしてメッカを奪うと、アラブ人はそれ以降の400年間を遙か離れたイスタンブールから統治されることになった。
 (注1)「・・・エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスン<二>派のイスラム王朝(1250年~1517年)。首都はカイロ。そのスルタンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれる。一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルタンに就いた。・・・<同朝は、>アッバース朝の末裔・・・を首都カイロで名目上のカリフに立て<た。>・・・<初>期のマムルークは、テュルク<(トルコ)>系遊牧民やモンゴル人、クルド人が中心で、<後>にはチェルケス人など北カフカス出身の者が多かった。奴隷商人の手でエジプトに連れてこられた彼らはスルタンや有力アミールによって購入されるとナイル川中州(バフル)やカイロの城砦(ブルジ)に設けられた兵営で軍事教練を受け、奴隷身分から解放されてマムルーク軍団に編入され、特に能力を認められた者はスルタンの側近から十人長、四十人長、百人長とアミールの位へと昇進することができ、宮廷の官職や地方総督職を任せられる有力アミールへの道が全てのマムルークに開かれていた。彼らは解放後も奴隷としての購入者である主人と強い主従関係を持ち、また同じ主人をもつマムルーク同士とは同門として固い同門意識に結ばれた、家族的な結合を誇った。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%9C%9D
 しかし、トルコ人はアラブ人とイスラム教を共有しており、アラブ人はオスマン帝国の運営に参画した。・・・」(A)
 (2)17~19世紀
  ア オスマントルコの支配体制
 「・・・16、17、及び18世紀は簡単に取り扱われている。
 この時代においては、オスマン帝国のアラブ諸州は、独裁的な地方盗賊の類によって統治された。
 『アラブの覚醒(The Arab Awakening)』(1938年)の中で、パレスティナの歴史家のジョージ・アントニウス(George <Habib >Antonius<。1891~1942年。ギリシャ正教の両親の下にレバノンで生まれ、エジプトで育つ>)
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Antonius (太田)
は、この時代について、以下のように記している。
 「人騒がせな人物達がこの3世紀の間闊歩し続けた。
 ある時は軍事好きで英雄的なファッデン(Fakhruddin<。不明(太田)>)やダヘール・アル=ウマール(Daher/Zahir al-Umar<1690?~1775年。ベトウィン系アラブ人>)
http://en.wikipedia.org/wiki/Daher_el-Omar (太田)
が、またある時は暴虐的で血腥いアハマッド・アル=ジャザール(Ahmad al-Jazzar<(=The Butcher)。1735~1804年。ボスニア生まれ。マムルーク朝のアクレ(Acre(=パレスティナ北部))・シリア・レバノン知事>)
http://www.answers.com/topic/ahmad-al-jazzar (太田)
やカイロの歴代のマムルーク朝支配者達が・・。
 しかし、彼等はいつも孤独で身勝手だった。
 彼等は退屈な生起を繰り返し、現れては消えた。
 <彼等は、>決してスレイマン大帝(<Suleiman/>Soliman the Magnificent<。1494?~1566年>)
http://en.wikipedia.org/wiki/Suleiman_the_Magnificent (太田)
がアラブ世界を締め付けたところの支配そのものを転覆させたり深刻に脅かすことはなかったのだ。」と。・・・」(B)
 「オスマントルコの初期の統治は巧みだったが、18世紀には、中央は、地方の一連のアラブ諸王朝にコントロール権を奪われた。
 ローガンは、パレスティナに30年間にわたって君臨した、ガリレー(Galilee)とアクレの剛腕指導者ダヒール・アル・ウマール(上出)や、エジプトを統治した無慈悲なマムルークの冒険者たる雲掴みのアリ(Ali <Bey al-Kabir。渾名Bulut Kaplan=>the Cloud-catcher<。マムルーク。1768~1773年の間、エジプト等を支配>)
http://books.google.co.jp/books?id=O7hZ8mzQ9n8C&pg=PA48&lpg=PA48&dq=Ali+the+Cloud-catcher&source=bl&ots=gMWF45ddEo&sig=UgOx_2f3efTpZE92vPSN1ADi6A4&hl=ja&ei=xzjsSveZNYbu6gOevvDvCw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=7&ved=0CCgQ6AEwBg#v=onepage&q=Ali%20the%20Cloud-catcher&f=false (太田)
のドラマを蘇らせる。
 この二人の指導者達は、どちらも、高く昇り過ぎて最終的にはイスタンブールによって滅ぼされることになる。・・・」(A)
(続く)