太田述正コラム#3630(2009.11.6)
<アラブの近現代史(その2)>(2010.2.25公開)
イ 欧州文明との再邂逅
「・・・ローガンは、<1798年の>ナポレオンのエジプト征服を解放という衣を纏った征服という欧米の伝統の中にしっかりと位置づける。
19世紀の初頭に、エジプトの太守(pasha)のモハメッド・アリ(<Muhammad/Mehmet >Muhammed Ali<。1769~1849年。当時のオスマン帝国両マケドニア(の今日ではギリシャ領)でアルバニア人の両親の下に生まれる。1805~48年:エジプトとスーダンの太守>)
http://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad_Ali_of_Egypt (太田)
<(コラム#55、81、388)>が、世俗的近代化という新しい原型を創り出した。
彼は、オスマン帝国全体をあわや崩壊させるところだったが、列強から圧力をかけられ、彼の子孫が代々エジプトの太守を務めるということで手を打った。
ある意味では、彼はアラブ世界において、19世紀末の文化の開花への窓を開いたのだ。
しかし、それは、北アフリカがフランスと英国によって植民地にされた時期でもある。
すなわち、アラブが一つの民族(nation)であるとの感覚が醸成されつつあったまさにその時に、欧州列強は彼等のアラブへの掌握力を高めつつあったと言えよう。・・・」(A)
(3)英仏による支配から現在まで
「・・・ローガンは、欧州の行儀作法とテクノロジーを身につけたトルコ人や北カフカス人(Circassian)やアルバニア人の支配者達と欧州との商業的絆の拡大について詳しいことから、こういったことを事細かに記し出すと、その語り口は次第にゆっくりとなる。
彼は、それから20世紀の最初の何十年へと進む。
それは、部分的には、鉄道と電信の普及によって、オスマントルコのアラブ諸州に対する掌握力が実際には高まった時代だった。
しかし、トルコが第一次世界大戦で敗北したことと、英国の政治家達の諸約束とウッドロー・ウィルソンの夢想的な諸声明によって、初期の汎アラブ民族主義者達は彼等の時がやってきたと信じるに至った。・・・」(B)
「・・・ローガンは、英国とフランスが1918年に中東を山分けする際、アラブ人とユダヤ人に対し、及びそのそれぞれの相手方に対し、矛盾した諸約束を行うという、著しく適切さを欠いたことを行った話を指し示す。
しかし、彼は同時に、ハーシェム家(Hashemites)<(コラム#55、56、60、65、70のQ&A、109、130のQ&A、900)>とアラビアのロレンス(Lawrence of Arabia<=Thomas Edward Lawrence。1888~1935年>)<(コラム#55、492、659、2309、3258)>による、<1916~18年の>いわゆるアラブの叛乱が達成したものがいかにわずかなものであったかも指し示す。
オスマン帝国の没落は、巨大な期待を生み出した。
それよりも大きなものでこそないが、少なくとも大シリアにおいてアラブの王国を打ち立てるという夢だ。
しかし、それから無惨な失望が訪れた。
それでも、新しいフランスと英国の諸植民地、すなわち諸委任統治領は、パレスティナにおけるユダヤ人の母国を約束したバルフォア宣言(Balfour Declaration)<(コラム#480に本文あり。この他、コラム#321、994のQ&A、1465、2303、2305)>とあいまって、現代アラブ民族主義を創造することとなる。
アラブ人の、次いでユダヤ人の叛乱に直面したため、結局は、英国はパレスティナを統治するのは不可能であることを悟った。
ローガンは、イスラエルに対する1948年の戦争とそれ以降の戦争における、アラブ諸国の容赦なき相互的敵対、政治的愚行、そして不適切なリーダーシップを暴き立てる。・・・」(A)
「勝利を収めた英国とフランスが、戦争の戦利品としてアラブの土地を山分けした時の<アラブ人達>の落胆はひどかった。
その英国とフランスの中東での時代の終わりが訪れたのは実に1950年代から1960年代にかけてのことだった。
・・・エジプト、レバノン、チュニジアその他における地域的アラブ民族主義の勝利は、汎アラブの夢の放棄を意味した。
パレスティナでの1948年のアラブ各軍の破滅的敗北を最も明白な例とするところの、その他の様々な落胆が生じた。
アルジェリアの独立は、<1954から62年にかけての>極めて激烈な闘いと血腥い戦争という犠牲を払って達成されたものだった。
エジプトとシリアがアラブ連合共和国(United Arab Republic)を形成するという<1958~61年の>試みもまた、大失敗に終わった。
ナセル(<Gamal Abdel >Nasser<。1918~70年>)による<1962年からの>イエメン内戦への介入もそうだ。
何よりも、エジプトのナセルとアルジェリアのFLNといった民族主義者の諸体制によって追求されたところの、社会主義的諸政策は、繁栄をもたらすことができなかった。
そのことと、世俗的民族主義者の諸体制によって用いられたところの、次第に暴虐的となった抑圧の諸手法は、多くの人々に、希望をイスラム同胞団その他のイスラム主義者の諸集団に託す気にさせた。・・・
1921年に人工的国家であるイラクの国王に英国によって据えられたファイサル(Faisal)<(コラム#55、2309)>は、彼の、愛されぬ、そして愛することを知らぬ臣民達について以下のように記した。
「私はこのことを心からの悲しみとともに言うのだが、<イラクには、>まだイラク人(Iraqi people)は存在しておらず、いかなる愛郷的(patriotic)観念をも持たず、宗教的諸伝統と様々なばかげたことを吹き込まれていて、いかなる共通の紐帯によっても結ばれておらず、悪に耳を貸し、無政府的傾向があり、そして恒久的にいかなる政府に対しても蜂起する用意のあるところの、想像もできない人間の塊しか存在していない」と。
これは、あたかも彼が21世紀においてイラクを占領している米国と英国の諸部隊に警告を発するために書いているようだ。・・・
<独立前にユダヤ人の諸団体が英領パレスティナ当局に対するテロを繰り返したが、>この本が与える、憂鬱だが教訓的なメッセージの一つは、テロは有効だということだ。・・・」(B)
3 終わりに
冒頭に掲げたサミール・カシールの問題提起にローガンがこの本の中でどう答えたのか、書評を読んだだけでは、必ずしも明確ではありません。
ただ、最後に出てきたファイサルの言は、イラクはアラブ人が多数派でクルド人等の少数派を抱える「国」であるところ、この「イラク」を「中東」で読み替えたものが、ローガンの考えとおおむねで同じであることは、容易に想像できます。
このファイサルないしローガンの考えは、かなり前に、コラム#87で開陳した私の中東観とほぼ一致します。
その折、私は、中東において近代社会ないし近代国家をつくるためには、ファシズムを経るしかないのではないか、という趣旨のことを記しました。
この考えは、今でも変わっていません。
中東には、トルコはともかくとして、(互にかなり異質ではあるけれど、どちらも)神政国家であるところのサウディアラビアとイラン、ファシスト国家であるところのとシリアと(かつての)イラク、そして在来型の独裁国家であるところのそれ以外の諸国しか存在しません。
(これに加えて、国家の体を為していないレバノンとパレスティナをあげるべきかもしれませんが・・。)
このうち、イラクとシリアが一番有望である、というわけです。
イラクのファシズムは、これみよがしに、内では虐殺を含む人権蹂躙を繰り返し、対イラン、対クウェートと対外侵略を繰り返した挙げ句、二度にわたって米国等による軍事介入を招き、不幸なことに、米国等によって他動的に自由民主主義に向けての体制変革をさせられてしまいました。
残ったシリアについては、自力でかかる体制変革を行う可能性が残されていると私が考えている、ということも累次申し上げてきたところです。
(完)
アラブの近現代史(その2)
- 公開日: