太田述正コラム#3648(2009.11.15)
<東欧の解放(その2)>(2010.2.28公開)
(2)「連帯」牽引説
「・・・プレシャコフの本、 ‘There Is No Freedom Without Bread!’ は、ポーランドの物語を彼の説明の中心に置く。
プレシャコフは、ロシアからの亡命者(emigre)・・・たる歴史家兼小説家(F)・・・であって、現在の<米国の>マウント・ホりヨーク単科大学で・・・客員教授として国際関係論を(F)・・・教えている・・・
1970年代に、共産党の管理者達は、彼等の大衆を幸せにし続けるために商品を購入する必要があることから、カネを借り始めた。
1980年代までには、これらの諸政府は困難な選択に直面した。
<世界全体が金詰まり気味になったからだ。>
ところが、共産主義諸国は、その債務を減らす代わりに、もっと借りることにした。
更にカネを貸してくれたのは、主として西欧諸国だった。・・・」(E)
「・・・果たして共産主義に対する反対勢力は中欧に存在していたのだろうか。
『非市民社会』の中で、プリンストン大学のソ連史家のスティーヴン・コトキンは、そんなものは存在していなかったと異例の強さで指摘する。
・・・<それに対し、>プレシャコフは、’There Is No Freedom Without Bread’ の中で、より穏やかでより複雑な指摘を行う。・・・
<彼の本のこのタイトルは、>ポーランドにおける連帯運動によって用いられた文句であるところの、「there is no bread without freedom(自由がなければパンも得られない)」を皮肉を込めて逆にしたものだ。・・・
プレシャコフのより幅広い修正主義的主張は、中欧では誰もが反共産主義であったと考えるのは間違っているということだ。
共産主義者だって<もちろん>いたし、時に彼等は非常に人気があった。
唯一の例外であるポーランドにおいては、共産主義者達と反共産主義者達との間で本物の「内戦」があったけれど、大部分の人民によって共産主義者達は、その正統性を認められていた、と彼は示唆する。・・・
だからこそ、<反共産主義の>チェコ人達はジャズバンド<(コラム#3506)>、ハンガリー人達は学術的な議論クラブをつくり、ポーランド人達は教会に行ったのだ。・・・
<要するに、>コトキンとは対照的に、プレシャコフは、<かつての東欧における>市民社会の存在を否定してはいない。
その代わり、中欧が第二次世界大戦の終結からベルリンの壁の崩壊まで一貫して反共産主義の温床であったという観念には挑戦するのだ。
彼は、1945年の時点で左翼への内発的支持があり、一定の水準でそれが現在まで続いたことを示そうと欲しているのだ。
<その中で唯一の例外が、1945年以降、一種の「内戦」が続いたポーランドだというわけだ。>
しかし、そこにおいてすら、最初の最初から共産主義を支持し、いや少なくとも社会主義を支持したポーランド人達おり、彼等が教会、知識人、そして「市民社会」と激しく戦ったことを彼は示すのだ。・・・」(A)
「・・・プレシャコフは、・・・「・・・一般には欧州は第二次世界大戦の最終場面における赤軍の最西端における進軍位置という極めて単純な断層線で分断されたということになっている」と記す。
「これは事実ではない。赤軍はフィンランドと東部オーストリアも占領したけれど、どちらの国にも共産主義を押しつけることなく、後に<赤軍は>撤退している」と。
確かにその通りであり、共産党統治が東欧全域で同等の厳しさで一斉に押しつけられたのではないのも事実だ。(例えばチェコスロヴァキアでは、1948年の初頭まで連立政府的諸要素が残された。)
プレシャコフは、・・・<共産党は、>いくつもの東欧諸国で、いずれにせよ多数ではないけれど、恐らくは選挙民の三分の一かそれ以上の<内発的な>支持を得ていたであろうと主張する。
どの国においても、共産党が真に自由で公開された選挙にによって権力の座に就いたわけではないけれど、結果として成立した諸体制は、<決して>モスクワの操り人形ではなかった」と彼は記す。・・・
例えば、ポーランドでは、農地の10%しか集団化されなかった…。
ハンガリーでは、ヤノス・カダール(Janos Kadar<。1912~89年>)が、自由市場と中央計画とが混合した複合経済を次第に構築した…。
ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceau���escu<。1918~89年>)は、モスクワによるチェコスロヴァキアへの介入に対して挑戦した。・・・」(F)
「・・・セベスティヤン(<Victor >Sebestyen)は、<著書の ‘Revolution 1989: The Fall of the Soviet Empire’の中で、>ポーランドにおける1989年の連帯労組運動の勝利について記す。
「レック・ワレサ(Lech Wa���esa<。1943年~>)は、史上初の真の労働者達による革命を指導した。
<これに対し、>1917年10月のボルシェヴィキは、プロレタリアートの名の下、自分達自身で権力を奪取したものだ。
傑出した能力を持った普通の労働者であったワレサによって、いかに真正なる労働者権力がボルシェヴィキの後継者達に対して用いられうるかが分かったのだ」と。・・・」(F)
(3)米ソ不介入説
「・・・当時の米国防長官であったディック・チェイニーは、ゴルバチョフの諸政策は、我々の最大の敵のふるまいにおける一時的な逸脱かもしれないと示唆した・・・。
ブッシュ<父米大統領>の方も、1960年代の<カリフォルニア大学>バークレー校の学生達のように見えた髭もじゃの反体制派達をさしてお気に召していなかった。
ヴィクター・セベスティヤンは、・・・<この>大統領が、ハンガリーの反体制派のヤノス・キス(Janos Kis<。1943年~。哲学者・政治学者>)に1989年7月にブダペストで会った時、突然側近達に、「こいつらはここを取り仕切るのにふさわしい連中じゃない」と伝え、我々は出自がはっきりしている(preppy)改革派の共産主義者達を相手にして行くべきだと付け加えた、という話をとりあげている。・・・
若干の誇張を交えて言えば、ワシントンは間違った判断をしていたがゆえに正しい対応が行えたと言えるかもしれない。・・・」(D)
「・・・ミハイル・ゴルバチョフの顧問であったアナトリー・チェルニャエフ(Anatoly Chernyaev)は、ベルリンの壁の崩壊について、11月10日付の日記に、「これがゴルバチョフがやったことなのだ…。彼は歴史の歩みを感じ取り、歴史が自然の流路を発見するよう手助けした」と書き、これを全面的に歓迎したが、これを読むと<我々は>瞠目させられる。
それに対し、<私は、>一人のイギリス人として、何とも恥知らずなことにマーガレット・サッチャー<英首相>が彼女のドイツに対して公的に行っていたいくつかの約束を裏切ったことを知って恥ずかしく思う。
・・・「NATOのコミュニケに書いてある文面は違った読み方ができるかもしれないが、そんなものは無視しなさい」と彼女は1989年9月にゴルバチョフに述べた。「我々はドイツの統一を望んではいない」と。・・・」(D)
「・・・ヘルムート・コール(Helmut Kohl<。1930年~>)がゴルバチョフに、ハンガリーがオーストリアとの間の鉄のカーテンを開けると決定した時、どう思ったかをたずねたところ、彼は、「ハンガリー人達は良い人々だ」と答えた。
もう一つの明記すべき事例は、1989年8月のポーランドの話だ。
連帯の顧問のタデウス・マゾウィエスキ(Tadeusz Mazowiecki<。1927年。戦後の中東欧で、89~91年、非共産主義者で初めて首相となった>)
http://en.wikipedia.org/wiki/Tadeusz_Mazowiecki (太田)
が非共産主義者達が指導し形成する政府をつくろうとしていた時、ポーランドの共産党の最後の指導者のミエスラフ・ラコウスキ(Mieczys���aw Rakowski<。1926~2008年>)が日記にゴルバチョフとの電話でのやりとりを次のように記録している。
「私が国家緊急事態宣言をしてもこの状況を打開することはできませんと言うと、ゴルバチョフは、新種の戒厳令・・・を敷くのは不可能だ。確かに心配なことだろうが、そのような手段に訴えることなくして、我々はこの状況から抜け出なければならない、と答えた」と。
また、予定されていなかったところの、自然発生的な大衆によるベルリンの壁の突破の翌日、東独の共産党の最後の指導者のエゴン・クレンツ(Egon Krenz<。1937年~>)は、ゴルバチョフからの伝言を駐東ベルリン・ソ連大使経由で受け取った。
クレンツの記憶によると、ゴルバチョフは、クレンツに対し「勇気ある一歩だ」と言祝いだという。
ゴルバチョフは、ドイツの作家のハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー(Hans Magnus Enzensberger<。1929年~>)の言によれば、撤退(retreat)の英雄という、新しい種類の英雄の一例なのだ。
とはいえ、ゴルバチョフの腰の引けた態度は、ブッシュ父のそれよりもはるかにひどいところの、<当時の>状況についての誤判断に基づいていたのだ。
彼は、かかる諸変化がソ連の国境線で止まると誤って信じていたのだ。
彼は、ソ連をそれ自体が帝国であるとは見ていなかった。
ところが、<ハーバード大学の>クレーマー(Mark Kramer)が示すように、中欧の東部<の解体>は、ソ連それ自体の解体を直接的にもたらしたのだ。
ソ連の大粛清とウクライナ飢饉についての歴史家であるロバート・コンケスト(Robert Conquest<。1917年~。英国の歴史家>)は、それから何年も経った後にゴルバチョフに、彼がどうなるかを全部知っていたとして、もう一度同じことをしましたかと尋ねた。
すると彼は、「多分しなかっただろう」と答えた。」(注)(D)
(注)エドアルド・シェワルナゼ(グルジア共産党第1書記を経て、85~91年にゴルバチョフ書記長・大統領の下でソ連外相を務め「新思考外交」を展開。冷戦終結や米ソ核軍縮に寄与した。92年からグルジアの指導者となり、95~03年、同国大統領)は、「・・・新思考外交を始めた80年代半ばに・・・<ベルリンの>壁の崩壊もソ連の解体も、実は予想はしていた。だから、実際に壁が崩れた時も驚きはしなかった。ただ、ソ連の解体はその先まだ10年はかかると思っていた。事態は見通しよりずっと速く進んだ。・・・」と証言している
http://www.asahi.com/international/update/1112/TKY200911120005.html
(11月12日アクセス)が、自己礼賛型の歴史歪曲がなされている可能性が排除できないし、仮にこの証言が正しいとしても、ゴルバチョフも同様に考えていたという保証はない。(太田)
「・・・自分が歴史をつくると考えるのが、恐らく諸超大国というものなのだろう。
しかし、新しい世界を生み出した1989年の2月から11月にかけての9ヶ月において、米国とソ連は、おおむね受け身の助産婦であり続けた。
彼等は自分達が<何も>やらなかったことで歴史をつくったのだ。
両巨人国とも、小さな国々で小さな人々によってなされつつあったことの意義を過小評価したために、腰が引けた姿勢をとり続けたのだった。・・・」(D)
(続く)
東欧の解放(その2)
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