太田述正コラム#3802(2010.1.31)
<人種主義的帝国主義米国の中南米政策>(2010.3.1公開)
1 始めに
コラム#3797で紹介した典拠等を用いて、人種主義的帝国主義米国の中南米政策の実相をご紹介しましょう。
2 ハイチ
「・・・<ハイチでの>奴隷の反乱のニュースが米国に届いた時、・・・フェデラリスト政府の最初の反射的行動は、白人のプランテーション所有者達を援助することだった・・・。
ジョージ・ワシントン率いる政府は、フランス人のプランテーション所有者達に726,000ドルを前貸しし、武器弾薬を売り、米国の商人達は彼等に食糧を売り、何人かの米国人は反乱者達と戦うことすら行った。
しかし、・・・公式の政府援助は、1793年にハイチ植民地におけるプランテーション所有者達の政府が崩壊し黒人達がこの島の大部分の支配を確立した時点で終わった・・・。
そして1798年には、<反乱の首魁たる>ツーサン(<Fran���ois-Dominique >Toussaint Louverture<。1743~1803年
http://en.wikipedia.org/wiki/Toussaint_Louverture (太田)
>)<(コラム#279)>の要請に応え、米議会は、ジョン・アダムス大統領にハイチとの貿易を再開することさえ認めた。
これに共和党は反対したが、南部人さえも含めて、フェデラリストはこれに賛同した。
このすべてがトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson<。1743~1826年。第3代大統領
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Jefferson (太田)
>) が大統領になった時に変更された。
ジェファーソンは、新世界における黒人共和国の創設と繁栄が米国自身の奴隷の反乱のモデルになるのではないかと震え上がり、そんなことは何としてでも受け入れがたいと思ったのだ。
早くも1793年に、ジェファーソンはジェームス・モンロー(James Monroe<。1758~1831年。第5代大統領
http://en.wikipedia.org/wiki/James_Monroe (太田)
>)に、「人間の感情に対してかくも深い悲劇が提起されたことはない…。私は日を追うにつれて、西インド島のすべてが有色人種の手にとどまり、早晩白人達が完全に追放されるであろうと確信するに至っている。我々の子供達は間違いなく、そして(ポトマック河よりも南の)我々自身だって恐らくは、同じ運命に陥ることを回避するために四苦八苦するという血腥い光景を見通すべき時が来ている」と書き送っている。
その2年後に、アーロン・バー(Aaron Burr<, Jr.。1756~1836年。第3代副大統領
http://en.wikipedia.org/wiki/Aaron_Burr (太田)
> )への手紙で、ジェファーソンは、ハイチ人達を暗殺教団員(Assassins)<(コラム#191、193、1604)>に準え、彼等を「ひどい共和国の食人種達」呼ばわりしている。
ジェファーソンは、ハイチ革命が成功すれば奴隷制の安定性が脅かされることを恐れた。
「何かが、しかも迅速になされない限り、我々は我々の子供達の殺害者になってしまうに違いない」と。
1802年には、ジェファーソンの最悪の恐れが現実化した。
彼は、7月にルフス・キング(Rufus King<。1755~1827年。米憲法への署名者の一人http://en.wikipedia.org/wiki/Rufus_King (太田)
>)に、「近隣の西インド諸島で起こっていることは、奴隷達の気持ちにかなりの影響を与えてきたように見える…。叛乱に向けての大きな傾向が彼等の間で示されるようになった」と書き送っている。
黒人共和国なる観念にさえ嫌悪感を抱いていたにもかかわらず、ジェファーソンは狡猾にもハイチでの戦争を米国の利益のために用いた。
ナポレオンが彼の義理の弟のシャルル・ルクレルク(Charles< Victor Emmanuel> Leclerc<。1772~1802年。黄熱病で死亡
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Leclerc (太田)
>)を反乱鎮圧のために1802年に<ハイチに>派遣した時、ジェファーソンは公には中立政策をとり、米国がツーサンに援助することを可能にした。
米国世論は、フランスの暴虐さへの反感へと変わった。
ジェファーソンは、フランスがニュー・オーリンズを占領したら英国と同盟関係を結ぶと脅した(注)。
(注)ルイジアナ(現在のルイジアナ州を含む、ミシシッピ河流域の広大な領域)は1762年に仏領からスペイン領となっていた。米国は、ミシシッピ河河口のニューオーリンズに輸出産品用の倉庫を維持する権利とミシシッピ河の水運を利用する権利を有していた。 1800年にナポレオンはルイジアナを仏領に戻したが、その事実は公表されず、スペインは引き続きルイジアナ統治を続けた。1803年に1500万ドルで米国領となる3週間前の11月30日に正式にフランスに権限移譲がなされた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Louisiana_Purchase (太田)
ジェファーソンは、ツーサンがフランスがルイジアナへと<領域を>拡大するのを妨げることを期待したのだ。
フランスが偽計を用いて1802年にツーサンを捕まえ、フランス本国で投獄する・・そこで彼は1年後に、恐らくは毒を盛られて死亡する・・と、彼は<反乱者達を>絶滅する戦争が起きることを期待した。
彼は、「他の何人かの黒人の指導者が立ち上がり、それに引き続き絶滅戦争が起きるだろう。なぜなら、もう一度フランスが降伏文書に署名しても黒人達がそんなものを信用するわけがないからだ」と言った。
それから彼は、ジェームス・モンローをニュー・オーリンズを購入するためにフランスに派遣した。
ジェファーソンは、「サン・ドミンゴ<(ハイチの当時の名称)問題>がフランスがルイジアナを所有するのを遅らせていて、フランスは金欠病に苦しんでいる」ことを知っており、結局、彼は、ルイジアナの購入という、米国史上最大の領域獲得という取引を成立させた。
これはまことに巧みな動きだったが、犠牲になったのはハイチだ。
1791年から1803年までかかった破壊的な解放・独立戦争の後、ツーサンがフランスに捕らわれたまさにその場所で、1804年についにハイチは独立を宣言した。
自身ハイチ人の子孫であるところの、W・E・B・デュボイス(<William Edward Burghardt >Du Bois<1868~1963年。オランダ人の血がちょっと入った黒人たる市民権運動家。父親はハイチ出身
http://en.wikipedia.org/wiki/W._E._B._Du_Bois (太田)
>)が、「これらすべての影響は巨大だった。ナポレオンは米帝国の夢を断念し、ルイジアナを二束三文で売り払った、と要約したように、こうして、米国の形と運命は永久に変貌を遂げたのだ。
1804年に、ジェファーソンは、ジョン・クインシー・アダムス(John Quincy Adams<。1767~1848。第6代大統領
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Quincy_Adams (太田)
>)に、自分はハイチとの貿易を止める決意を固めたと伝えた。
ハイチ人が自由を得るのを援助してきておいて、彼は、その後生まれたばかりのこの国を縊死させることに努めた。
彼は、さもないとその独立を承認することになり、米国の南部全域で奴隷蜂起の引き金になりかねないとして、この島を封鎖し、公的貿易に反対したのだ。
ハイチに対する禁輸は、1810年の春まで続けられた。
貿易は、1806年の670万ドルから1808年には150万ドルまで減少した。
また、1862年まで、この共和国を承認しないことは、米国の公的政策であり続けた。・・・
<時代は下って、>米国によるハイチの占領は1915年7月28日から1934年8月15日まで続いた。
ジェームス・ウェルドン・ジョンソン(James Weldon Johnson<。1871~1938年。黒人たる市民権運動家
http://en.wikipedia.org/wiki/James_Weldon_Johnson (太田)
>)は、早くも1920年に、「もし米国が今日ハイチを去るとすれば、米国がつくった1000人を超える未亡人と孤児、1世紀にわたって存在してきたものを超える山賊行為、全住民の心中に怒り、憎しみ、そして絶望、そして、言うまでもないことながら、米国の人権擁護者としての自らの伝統の取り返しの付かない毀損、とを残して行くことになろう」と結論づけた。
W・E・B・デュボイスが1930年に<ある集会で、>米国はナショナル・シティー銀行の金融的利益を守るためにハイチを侵略したと語った時、聴衆は彼を「つまみ出せ」と要求したものだ。・・・」
http://www.theroot.com/print/38236
(1月29日アクセス)
3 中南米全般
「・・・どうして米国政府は、これらの<中南米の>貧しい諸国の指導者が誰であるかにそんなにこだわるのだろうか。
一つには、上手なチェス指しなら誰でも知っているように、歩は大事だということだ。
ゲームの初期に数個の歩を失うと勝敗にかかわることがありうる。
米国政府は、これら諸国をもっぱら赤裸々な力の観点から見ている。
米国の世界における力を最大化することに同意する諸政府を米国政府は好む。
それが必ずしも米国に敵対的でなくても、これ以外の目標を持つ諸政府を米国政府は好まない。
オバマ自身は右派の政治家ではないけれど、オバマ政権にとって最も親しい西半球の同盟諸国がコロンビアやパナマのような右派諸政府であることは驚くべきことではない。・・・
<もう一つは以下のとおりだ。>
<例えば、>米国は、チリの民主主義を1973年に転覆するよう計るに至るはるか以前の1960年代から、チリの政治に深く関与してきた。
1970年10月、リチャード・ニクソン大統領は、<ホワイトハウスの>大統領執務室でチリの社会民主主義的大統領のサルヴァドール・アリェンデ(Salvador Allende<。1908~73年
http://en.wikipedia.org/wiki/Salvador_Allende (太田)
>)<(コラム#1193)>に呪いの言葉を吐いていた。
・・・チャード・ニクソンは、10月15日に「あのアリェンデの野郎、叩きのめしてやる」と言った。
その数週間後に彼はその理由を説明した。
チリに係る最大の心配は、[アリェンデが]権力を固めることができ、その結果世界にその姿が映し出されることが彼にとって成功であることだ…。つまり、彼が南米の潜在的な指導者達に、自分達もチリと同じ動きが可能であると考えさせ、その結果罰せられることがないと考えさせるようになるだろうが、そうなると我々にとっては困ったことになる」と。
<つまり、>これが、歩が大事なもう一つの理由なのだ・・・」
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/cifamerica/2010/jan/29/us-latin-america-haiti-honduras
(1月30日アクセス)
4 終わりに
これだけのことを中南米でずっとやってきた米国が、いわば、米国にとってのメキシコの位置にロシア(ソ連)が存在していたところの日本が、東アジアにおいてやったその何分の1のことを、ことごとく邪魔をして、その結果ロシアに手を貸したのですから、その罪は重いなんてものではありません。
残念ながら典拠が明らかではありませんし、必ずしも最も適切な引用ではありませんが、
「1930年には、キャッスル駐日大使がフーバー大統領に対して「日本が満州に特殊権益を持っている事実は、我々がキューバにおいてそうであるのと同様に無視することはできない。しかし日本が満州を併合する危険性は、我々がキューバを併合する可能性よりも低いくらいである。」との報告を行って<いる>」
http://www.history.gr.jp/~showa/132.html
(1月31日アクセス)といいます。
米国にも、比較的まともな大統領とまともな駐日大使を持った時もあったということです。
人種主義的帝国主義米国の中南米政策
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