太田述正コラム#3668(2009.11.25)
<米国の世紀末前後(続々)(その1)>(2010.3.12公開)
1 始めに
ジャクソン・リアーズ(Jackson Lears)の ‘Rebirth of a Nation’ をコラム#3333と3335でご紹介したところですが、この本を入手して斜め読みしたので、「太田史観」を裏付ける材料として使えそうな箇所を抽出し、改めて皆さんにご紹介することにしました。
2 総論
「植民地時代の初期から、暴力を通じて再生すること(regeneration)への信条が米国の辺境の諸神話の底に潜んでいた。
辺境の消滅・・米連邦統計局によって1890年に発表された・・によって、暴力は外に、すなわち帝国へと向かうこととなった。」(PP9)
「再生の時代は、科学的人種主義の時代と一致している。
科学的人種主義は、国内と海外帝国における白人至上主義を正当化した。」(PP10~11)
「キューバ人とフィリピン人の独立運動の抑圧は、新しい種類の米帝国の始まりの合図だった。
それは、人口が希薄な地域の占領より、人口の多い諸国家への介入に基盤を置くものだった。
占領から介入への移行は、米国が開拓者の社会から全球的大国へと変貌したことを体現していたが、インディアンに対する諸戦争と帝国としての諸戦争との間には驚くほどの継続性があった。」(PP33)
「南部連合との戦いとスー(Sioux)族やフィリピン人との戦いの違いは、<後者の>黒い色の敵に対しては、焦土政策が意図的絶滅戦略となったことだ。
ウィリアム・T・シャーマン(William <Tecumseh >Sherman<。1820~91年>)将軍は、グラント(<Ulysses S. >Grant<。1822~85年。後に米大統領>)に対し、1867年にインディアンが陸軍の部隊の8名全員を殺した後、「その男達、女達、及び子供達の絶滅さえ視野に入れて、スー族に対し、復讐的な真剣さでもって行動しなければならない。・・・」と書き送った。
それが、それ以降、19世紀の終わりまで、陸軍がインディアン達に対して続けたやり口だった。
フィリピンにおける司令官達は、村落の生活の中に溶け込んだ、神出鬼没のゲリラ戦士達に直面し、彼等自身、同じような絶滅主義者的目標・・ジェイコブ・スミス(Jacob Smith)将軍の悪評高い命令であるところの、小銃を携行できるすべてのフィリピン人を殺せ、というような目標・・を採用するに至った。
もう少し具体的にと求められると、彼はこう言った。10歳を超える者全員だと・・。
歴史家のジョン・フィスク(John Fiske<。1842~1901年>)が、その著書の『ニュー・イングランドの始まり(Beginnings of New England)』(1889年)の中のペクォット(Pequot)戦争(注1)に関する章の中で、野蛮人達と戦う場合は、野蛮に戦わなければならないという所見を述べたように・・。
(注1)1634~38年の、マサチューセッツ植民地とプリマス植民地とインディアンのペクォット族との戦争。植民地側はペクォット族に敵対する、モヒカン(Mohegan)族等のインディアンの諸部族とともに戦い、ペクォット族をほとんど絶滅させた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pequot_War (太田)
人種主義は、国内的、及び対外的帝国における対叛乱諸戦争の連続性を強化した。」(PP34)
米自然史博物館は、1877年にニューヨーク市で開館したが、アジア、アフリカ、及び北米の人々を、は虫類、魚類、そしてライオンと並べて展示した。」(PP35)
2 人種差別
「1924年の出身地法(National Origins Act)は、・・・欧州からの移民に(1890年からの個々の国からの移民数の2%の)枠をはめたが、アジアからの移民は禁止した。(注2)」(PP95)
(注2)「この法の最も強力な支持者達の幾ばくかは、マディソン・グラント(Madison Grant<。1865~1937年>)と、彼の1916年の本である『偉大な人種の死(The Passing of the Great Race)』の影響を受けていた。グラントは、優生学主義者であり、人種的浄化(hygiene)理論の主唱者だった。彼は、データで、米国を建国した北欧諸人種の優越性を示そうとした。
しかし、この法の賛成者達の大部分は、人種的な現状維持を図ることによって外国人労働者達との競争を回避することに、より関心があった。
この法は、よく知られた労働組合指導者にしてAFLの創設者である、サミュエル・ゴンパース(Samuel Gompers<。1850~1929年>)によって強く支持された。ゴンパースは、ユダヤ人移民であり、多くのユダヤ人からの、<この法が定めた人種別>枠は、反ユダヤ主義に立脚している、との非難を意に介しなかった。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Immigration_Act_of_1924 (太田)
「優生学への知的敬意は、1930年代まで払われ続けた。・・・」(PP100)
(続く)
米国の世紀末前後(続々)(その1)
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