太田述正コラム#3672(2009.11.27)
<米国の世紀末前後(続々)(その3)>(2010.3.20公開)
5 米国的帝国主義再論
「米帝国は、より古い欧州のモデルと、実際、異なっていたが、それは本質においてではなく形式においてだけだった。
公然と領土を獲得するのではなく、米国の政策決定者達は、外国の諸資源、投資の諸機会、そして市場により直接的ではないアクセスを追求した。
従属的諸体制(client regime)の据え付け、従属的諸体制が失敗した場合の批判者達への脅迫、そしてしばしば、長期にさたる諸占領によって・・。
米国人達を帝国的諸政策へとコミットさせたところのものは、それを彼等が自覚していたかどうかはともかく、自分達の繁栄、及び人種的、社会的、そして更には、国民としての道徳的アイデンティティーや個人的・民族的再生の夢を下支えしているところの力のための帝国への依存だった。」(PP278~279)
「安定の維持についてのすべての議論は根本的に誤解を呼ぶものだ。
米国の帝国的政策は、既存の諸政府を不安定化するとともに社会的無秩序を促進するところの、経済的諸機会の探求に立脚していた。
セオドア・ローズベルト自身は保守主義者ではなかった。
彼は、あらゆる機会をとらえて無秩序をかきたてた<からだ>。
特に、ラテンアメリカでは、ローズベルトの諸政策は、状況を悪化させ、動乱の引き金となった。
歴史家のウォルター・ラフィーバー(Walter LaFeber<。1933年~>)(注4)が述べたように、近視眼的ナショナリズムと偏向した世界史の読書に突き動かされ、ローズベルトは、「健康で徐々に進化しつつあった国際システムを維持していた力の均衡の複合体の代わりに、革命的で戦争によって難破させられた世界を創り出すという役割の一つを果たした。」(PP279~280)
(注4)米国を代表する歴史学者で修正主義的見方を提示。
彼が書いた本、The New Empire: An Interpretation of American Expansion, 1860-1898 (1963, 1998) 、Inevitable Revolutions: The United States in Central America (1984, 1992)、及び、 The Clash: U.S.-Japanese Relations Throughout History (1997) は、それぞれ賞を受賞している。
特に一番最後の本など、一度は読む必要がありそうだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_LaFeber (太田)
6 中米へ
「<ローズベルトの意向を受けたクロムウエル(<William Nelson >Cromwell<。1854~1948年。米国の弁護士
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Nelson_Cromwell (太田)
>)とブノー=ヴァリラ(<Philippe-Jean> Bunau-Varilla<。1859~1940年。フランス人でレッセプスのパナマ運河会社の社員
http://en.wikipedia.org/wiki/Philippe-Jean_Bunau-Varilla (太田)
>)の>二人は、国務省に自分達の諸計画の情報を入れつつ、1903年11月に、コロンビア人達に対するパナマ人達の蜂起を煽動(foment)した。
米国の戦闘艦艇が、米国の諸利益を守る態勢で、パナマ沖に「たまたま」停泊していた。
この蜂起は成功し、ヘイ(前出)は、新しい条約を(パナマ人達とではなく)ブノー=ヴァリラとの間で調印した。
この条約(注5)は、<パナマ>地峡の中心部を横断する、10マイルを超える幅<の地域>について、米国に主権を供与するものだった。」(PP280)
(注5)「ヘイ・ヴァリラ条約は、(パナマがコロンビアから独立した2週間後の)1903年11月18日に調印された。・・・
パナマ人達はただの一人もこの条約に調印はしなかったが(彼が叛乱者達に金銭的援助を行ったことで購入した役割たる)パナマ外交代表としてブノー・ヴァリラがその場に立ち会った。・・・
1977年のトリホス・カーター諸条約(Torrijos-Carter Treaties)は、最終的にヘイ・ブノー・ヴァリラ条約を廃止し、パナマの運河地区のコントロール権の<パナマへの>漸次的移項と1999年12月31日を期してのパナマ運河の完全なコントロール権の<同国への>移譲を認めた。・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/Hay%E2%80%93Bunau_Varilla_Treaty (太田)
「ローズベルトは、次いで、<ドミニカとの>関税協定を上院に承認させようと試みた。
上院がこれを拒否した時、ローズベルトは、彼自身による違憲の行政協定をドミニカ政府との間でつくった。
彼は、ドミニカ沖に何隻かの船を配置し、いかなる革命の勃発にも蓋をし、かつ、外国人達を排除しようとした。
1907年には、上院は、ローズベルトの既成事実に屈し、<同国への>軍事介入に公式の承認を与えた。」(PP281)
「<中米の>他の地域では、ローズベルト政権は、それが米国のエリート達の利益になるように見えた場合は、戦争と革命を支持した。
とりわけ、ローズベルトは、自分のコントロール下における統一中米を構想したところの、ニカラグアの独裁者たるホセ・サントス・ゼラヤ(Jose Santos Zelaya<。1853~1919年。大統領:1893~1909年。開明的諸政策を遂行
http://en.wikipedia.org/wiki/Jos%C3%A9_Santos_Zelaya (太田)
>)の影響力を堀崩す目的で、革命諸運動、諸連合、そして諸国に肩入れした。」(PP281)
「これらの諸政策は、安定とか、いわんや道徳性などではなく、北米の資本の可能性の新分野への侵入を継続することを意図したものだったのだ。」(PP281)
(続く)
米国の世紀末前後(続々)(その3)
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