太田述正コラム#3674(2009.11.28)
<米国の世紀末前後(続々)(その4)>(2010.3.21公開)
7 米国的帝国主義再々論
「ローズベルトはノーベル平和賞をとったが、日本人達から彼が得られるだろうと期待したもの・・極東への米国の経済的拡張への門戸開放・・をかちとることには失敗した。
ローズベルトが、日本が極東における商業的卓越(preeminence)についての正当な要求を持っているかもしれないことを認められなかったことは、20世紀の多くに係る米外交政策を特徴付けた帝国的二重基準の典型だ。」(PP282)
「モンロー宣言(Monroe Doctrine)を拡大するどころか、ローズベルトは、同宣言を覆してしまった。
1823年の元々の政策は、ラテンアメリカの革命を欧州の介入から守ることを意味していたというのに、ローズベルトによるその修正は、米国による介入をラテンアメリカの革命から守る企図を有していたのだ。」(PP285)
「ハードとソフト、それぞれの帝国主義者達は、全球的商業的覇権(supremacy)への共通のコミットメントを共有していたが、口調(tone)と諸戦術において異なっていた。
<前者の>ビヴァレッジ(<Albert Jeremiah >Beveridge<。1862~1927年。上院議員>)とローズベルトは、軍事的征服が大好きだった(thrilled to)のに対し、<後者の>ウィルソンは、消費を通じた文化的高揚(uplift)の福音を説いたのだった。」(PP321)
8 再び中米へ
「まこと、ソフトな帝国主義者であったウィルソンは、しかしながら、とりわけ西半球では、お馴染みの軍事的手法に彼自身、訴えたものだ。
ローズベルトのように、ウィルソンは北米資本の正しさの諸主張の諸利益を包装紙でくるんだ(envelope)。
彼は、自分が「南米の諸共和国に良い男達を<政治指導者として>選出するよう教え」たいのだと主張したが、その良い男達とは、(ウィルソンがそんなことができたとしての話だが、)いつも、富の再配分に反対し、米国の石油、鉄道、金融、鉱業、製材、ゴム、そして農業の諸利益を支持した者達ばかりだった。」(PP322)
「この理想主義的帝国主義は、あらゆる節目に大災害をもたらした。
自分達の良い意図に酔いしれて、ウィルソンとブライアン(<William Jennings >Bryan<。1860~1925年。国務長官:1913~15年。1896年と1900年の民主党大統領候補。前者の時は36歳でいまだに大統領候補として史上最年少。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Jennings_Bryan (太田)
>)は、民主主義の推進という名目の下、当該地域の文化的諸態度は言うに及ばず、当該地域の政治に関心を払わなかった。
<ウィルソン政権の>道徳主義は、いつも<その後ろから>軍国主義を引き連れてくるように見えた。
1913年から始まった<ウィルソン政権の>メキシコへの諸介入は、爾後、<米国の南米政策>全体の基調たるパターンとなった。」(PP324)
「最終的に1916年に、ウィルソンは、米海兵隊を派遣し、メキシコを軍事的警察国家として運営することにした。そして、<歴代の米国政府は、>それを20年間にわたって続けた。
カリブ海地域でも、メキシコ同様、理想主義的帝国主義の帰結は、へたくそな諸侵攻と不必要に失われた人命と、北方の偽善的な(pious)弱い者いじめに対してわだかまるラテンアメリカ人達の不信、だった。」(PP325)
9 第一次世界大戦参戦
「ラテンアメリカでは、ウィルソンとブライアンが一緒になってドジッたところ、第一次大戦は、この二人の袂を分かつことになった。
大部分のイギリス系米国人同様、ウィルソンは本能的に親英だった。歴史ある新聞もまた、そのニュースの大部分を英国の情報源から得ており、ドイツ人達を、襲撃を旨とする野蛮人達として描写していた。
<こうして、>中立に固執したブライアンは、彼以外のウィルソン政権から孤立してしまったのだ。」(PP325)
10 米国的帝国主義再々再論
「エドワード・ハウス(Edward <Mandell >House<。1858~1938年>)大佐は、都会のテキサス人であったところ、1911年に昇り龍のごとくであったウィルソンの腰巾着になった。・・・。
彼の<大佐という>階級は架空の敬称だったが、彼はすぐにウィルソンにとっての「第二の存在(personality)…私の分身(independent self)」となった。
1912年にハウスは、Philip Druを出版したが、これは、軍事的暴力と一時的独裁制を通じたユートピア的社会的変革(transformation)を描いた進歩主義的ファンタジー小説だった。
これが、ウィルソンの見解にいかなる影響を及ぼしたかは憶測できるというものだ。
ハウスは、1913年にウィルソンが戦争を「経済的命題としては破滅をもたらすものであると考えていたけれど、戦闘で死ぬことよりも名誉なことはないと思っていた」と主張した。」(PP330)
「<既に>何十年にもわたって、ファシスト達を除けば、男や民族は、戦場における勇敢な犠牲を通じて再生できるとの観念は廃れていた。
しかし、ローズベルトがそうであったように、ウィルソンのビジョンも、まさにそのようなものだったのだ。
<しかし、その後の時代においては、>極めつきにもっともらしい戦争ではあったところの、第二次世界大戦においてすら、米国人達は、修辞的高揚を避け、汚い仕事を果たして家に帰ることに焦点をあてたものだ。
ところが、冷戦が道徳主義的軍国主義を<再び>再生させた。
<その結果、>冷戦においては、核軍拡競争の自殺的誇大さが醸成されたし、ベトナムや他の対叛乱の戦場においては、何千もの命が無駄に失われた。
米国のベトナムでの敗北は、一時的に国をあげての自己糾問の波をもたらしたが、ロナルド・レーガンが<大統領に>当選すると、米国の外交政策において、軍事的態勢づくりが中心的場所へと<またもや>復帰した。
それは、主流の世論形成者達の間での、セオドア・ローズベルト崇拝の復活と時期的に一致していた。」(PP353)
11 終わりに
米国の人種主義的帝国主義の19世紀末の起源については、これでおおむね説明できたように思います。
先の大戦時における米国の対日人種主義的帝国主義については、ジョン・ダワーの’War without Mercy: Race and Power in the Pacific War’(『人種偏見――太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』(TBSブリタニカ)) で十二分に説明されていた記憶がありますし、この両者を結ぶミッシングリンクが、ジョン・マクマレーの’How the Peace was Lost’
(『平和はいかに失われたか』(原書房))だと思います。
(完)
米国の世紀末前後(続々)(その4)
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