太田述正コラム#3844(2010.2.21)
<イギリスとユダヤ人(続)(その2)>(2010.3.26公開)
 (2)英文学における反ユダヤ主義
 「・・・<しかし、その後、ユダヤ人がイギリスからいなくなり、直接ユダヤ人に接することがなくなった期間中も、文学の中で「悪徳」ユダヤ人がしばしば取り上げられることとなる。>
 イギリス文学の聖者録における最も尊敬されている3人の作家達の最も知られた作品は、<ユダヤ人はキリスト教徒の血を求めているという>血の中傷(blood libel)(注1)に立脚している。
 (注1)「血の中傷とは、ユダヤ人がキリスト教徒の子供達を犠牲にして、その血を、様々な医薬用途、または過ぎ越しの際のマッツォ(Matzoth)<(後出)>・・・の準備のため、もしくは、復讐と磔刑のまねごとのため、の用途で用いる、という<ユダヤ人に対する>誤った非難を指す。・・・」
http://www.zionism-israel.com/dic/blood_libel.htm (太田)
 チョーサー(Geoffrey Chaucer。1343?~1400年
http://en.wikipedia.org/wiki/Geoffrey_Chaucer (太田)
)の<『カンタベリー物語』中の>「女子修道院長物語(The Prioress’s Tale)」
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Prioress’s_Tale (太田)
には、いたいけな子供が知らないうちにユダヤ人を怒らせ、そのユダヤ人に喉をかききられ、その子供が殉教者となるという話が出てくる。
 また、シェークスピアは・・・『ヴェニスの商人』の中で、シャイロックによる「一ポンドの肉」のシャイロックを世界に紹介した。
 そして<、これはユダヤ人がイギリスに戻ってきてからの時代においてだが、>ディケンズは、『オリヴァー・トゥイスト』の中で、ひどく嫌な奴で無際限な邪悪さをもって他人を餌食にするファギン(Fagin)を登場させている。
 このいずれにおいても、貪欲で自己中心的なユダヤ人によってキリスト教徒の子供の血ないしは子供のような無垢さが儀式的に追い求められ、蹂躙される。・・・」(D)
 「・・・ジュリウスは、<まず、>チョーサーを・・・非難する。・・・」(B)
→これに、書評子は次のような批判を投げかけています。(太田)
 「・・・<これは、>文脈を無視するとすれば、一見もっともらしい議論ではある。
 しかし、どんな学部学生でも教えてくれるだろうが、この物語の語り手である、小姑的な架空の女子修道院長は、すこぶるつきに信用できないナレーターだ。
 だから、チョーサーがユダヤ人憎悪を普及しようとしたのか虚仮にしようとしたのかは、議論が残るし、恐らく決着は付けられないだろう。
 ジュリウスは、反ユダヤ的なのが単にこの女子修道院長だけではなく、チョーサー自身であることを<きちんと>主張しなければならなかった。・・・
 <また、ジュリウスは、>マーロウ(Marlowe)の『マルタ島のユダヤ人(The Jew of Malta)』<も問題にしているが、これは>は(ユダヤ人が臭ったり、井戸に毒を投げ込んだり、キリスト教徒の子供達を殺したり、等々の)反ユダヤ的諸神話の要約<のような戯曲>であるところ、シェークスピアが登場し、マーロウを論駁する必要があると思うようなことさえなかったならば、この種の<ユダヤ人に対する>攻撃的な作品の掉尾を飾る皮肉なるおちゃらかしになっていたとしても不思議ではなかった。・・・
 <また、シェークスピアの『ヴェニスの商人』についても、>ジュリウスは、この戯曲を、単なるシャイロックの裁判の話へと矮小化し、どうしてその題名にシャイロックという言葉が出てこないのかという疑問すら呈している。
 しかし、ユダヤ人憎悪は、この陰鬱な戯曲の中で探求される様々な偏見という大きな集合のほんの一部分に過ぎない。
 つまり、シェークスピアは、(ジュリウスにとって反ユダヤ主義の拭うことのできない徴である)ユダヤ人に取り憑かれているような御仁とは無縁の人物であり、エリザベス朝の劇場訪問客に、ユダヤ人が<いかほど自分達と>違っているか疑問を抱かせ、イギリスの人種的、民族的、かつ宗教的アイデンティティーに係る諸問題を正視させようとしたのだ。・・・」(B)
 (3)第二期
 「・・・ユダヤ人は英国に17世紀末に戻り始めた。
 しかし、彼等の法的制限が完全に撤廃されたのはようやく1858年になってからだった。
 この年、長きにわたった軋轢の後、ユダヤ人は、議会での就任宣誓を<新約聖書に手を置くことなく>行うことが許されるようになり、おかげで議員になれるようになったのだ。
 1753年には、推定8,000人のユダヤ人が英国にいた。
 この数は、第一次世界大戦直前の時点に、その大部分が東欧各地でのポグロムを受けてやってきたところの、50,000人の<ユダヤ人>移民によって劇的に増えた。
 1930年代における不快極まりない黒シャツ(Blackshirts<=British Union of Fascists のメンバー)による反ユダヤ主義
http://en.wikipedia.org/wiki/Blackshirts (太田)
>の噴出はあったけれど、ジュリウスは、1660年代から1960年代にかけて、反ユダヤ主義は比較的沈静していたと語る。・・・」(C)
 「ユダヤ人が戻ってくると、この本に大文字で書かれているところの、文化的、政治的、そして宗教的な理由が織り混じって、イギリス<のユダヤ人観>は、第二のタイプであるところの、テレグラフ紙によって示された、より穏健で「日常的(quotidian)」でモダンな校友会的(old-boy)反ユダヤ主義・・「排除と殺害ではなく、侮辱と拒絶の反ユダヤ主義」・・へと変化した。・・・」(D)
 「<この期においては、>イギリスにおける反ユダヤ主義は、隠密裏で遠回しで、暗黙の理解の下、限定的排除の形で作用した。・・・」(B)
 
 「・・・ユダヤ人に対する暴力は言葉から始まるのがお定まりだ。
 しかし、ジュリウスは、近代以降のイギリスでは、反ユダヤ的議論は、頻発し、遍在し、しばしば悪辣ではあったものの、ドイツ、ロシア、そしてフランスにおいてのように、組織的暴力や政府によるユダヤ人への裏切りにまで至ることは決してなかった。
 (ジョージ・オーウェルが述べたように、イギリスにも反ユダヤ主義は存在したが、「誰も実際に何かをユダヤ人に対して行おうとは思わなかった」のだ。)
 ジュリウスは、この組織的な敵意の欠如を、(フランスがユダヤ人に取り憑かれているのと違って、)イギリスの知識人の間におけるユダヤ人に対する関心の欠如と、イギリスのお国柄、つまり、イギリス人の紳士的ふるまいの感覚とその(当時の)文化的自信、に帰する。
 (19世紀末において英スペクテーター誌いわく、「[ユダヤ人]が賢くて精力的であるのは間違いないが、彼等を恐れなければならないのは退廃した人種だけだ…。ユダヤ人に対して寛容たりえない民族は、反ユダヤ的暴虐に深く鼓吹されるが、こんな民族は勝利することはできないだろう。」)・・・」(D)
(続く)