太田述正コラム#3868(2010.3.5)
<日進月歩の人間科学(続X15)>(2010.4.5公開)
1 暗闇と人間
 「いかがわしい行い(Shady Deeds)が暗いところで起こりがちなのはどうしてだろうか・・・
 我々がどれだけ倫理的にふるまうかということと、我々の周りがどれだけ明るく照らされているかということとは、常に相関関係がある。
 大部分の悪い行いは暗闇に紛れて行われるし、ほとんど存在せず、最も厚かましいのが、真っ昼間の光の中で行われる犯罪だ。・・・
 ・・・これは、<我々が>発見されることを恐れるからだけではない。
 暗闇が不行跡を行いやすくする(waiver)他のいくつかの理由があるのだ。・・・
 ・・・<実は、>暗闇は・・・研究者達の言う「誤った隠蔽感覚」を与えるのだ。・・・
 <その証拠として、>一つの集団にはサングラスをかけさせ、もう一つの集団には普通の<度なし>メガネをかけさせた<実験がある。>・・・
 被験者達は全員、当然ながら、サングラスをかけたかそうでないかによって何の違いもないことを知っていたにもかかわらず・・・暗闇が利己的ふるまいを増加させたのだ。・・・
 、我々は昼と夜のサイクルという世界の中で進化してきており、実際のところ、暗闇がふるまいを隠蔽するの<は事実>であるからして、光が薄れると、無意識的に守られているという感覚が常に起きるのは不思議ではない。
 これに加えて、人間は、悪名がとどろくほど自己中心的であるため、世界の自分以外の人が自分と同じようにいつも物事を感じているわけではないことに思いを致すことが困難なのだ。・・・
 ・・・だから、我々は、<例えば、>自分が緊張していたり、あるいは心ここにあらずであるから、他人も同じように感じているに違いないと勘違いする傾向がある。・・・
 <サングラスをかけると自分にとっては暗いから、他人も暗い思いをしていると勘違いしてしまうというわけだ。>
 ・・・Eメールでやりとりをする場合ですら、我々は、部屋が太陽光で満たされている時よりも光が暗い時の方が、より嘘をついたり歪曲したりする傾向があるのだ。・・・」
http://www.time.com/time/health/article/0,8599,1969242,00.html
→これは、仏教で言う「無明」を思い起こさせます。
 「我というものが存在するという見解(我見)が無明である。・・・智慧の光に照らされていない状態をいう。・・・智慧によって・・・破ることにより・・・無明<は>・・・消滅する・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E (太田)
(3月4日アクセス。以下同じ)
2 不眠症
 「・・・我々が頭の中で目標を思い描く・・例えば、白い熊とかセックスとかストレスの多い出来事とかについて考えないようにする・・や否や、脳は我々が<その目標に向けて>前進しているかどうかをチェックするため、必然的にどこまでも追求しようとする考えが常に生じてしまう。
 その結果は、もちろんのことだが、我々は、自分が避けようとした一つのことに取り憑かれてしまうのだ。・・・
 ・・・<実際、実験してみると、>速く眠るように指示された被験者は、<そんな指示を受けていない被験者に比べて、>眠るまでにはるかに長い時間がかかる。・・・
 不眠症は、結局のところ、我々の意識の副産物であり、我々が、たゆまず自意識がある(self-aware)ことに対して支払う代償なのだ。・・・」
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2010/02/28/mind-games/?pagemode=print
→これも、仏教で言う「執着(しゅうじゃく)」を思い起こさせます。
 「<執着とは、>・・・事物に固執し、囚われる事。・・・、修行の障害になる心の働き・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B7%E7%9D%80 (太田)
3 終わりに
 釈迦の世界観は、最先端の物理学の世界観をある意味で先取りしており、仏教は、自然科学と最も抵触するところの少ない「宗教」・・カギ括弧をつけるのは、仏教は無神論だから・・であると言ってよいでしょう。
 その釈迦の人間洞察力は、更に凄いなと思います。
 現代心理学の最先端が、ようやく釈迦に追いつきつつある、といったところでしょうか。
 耳タコでしょうが、せっかく日本には仏教の伝統があるのですから、日本の仏教関係者や哲学者や心理学者等にはもっと頑張ってもらい、世界に向けて積極的にこの仏教的伝統を生かした発信をして行って欲しいものです。