太田述正コラム#3874(2010.3.8)
<日進月歩の人間科学(続X12)(その2)>(2010.4.8公開)
 「その1」から時間が経ってしまいましたが、以下をお読みになれば、どうして私が上梓を躊躇したかお分かりいただけると思います。いずれにせよ、あしからず。(太田)
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 「・・・身振り(gesuture)は、話(speech)にはない情報を伝達する場合に教える手段として効果的であるだけでなく、同じ情報であっても、それを異なった包装の下で伝達するから効果的だ。・・・
 身振りを伴った話を行うことは、話者の側にとって身振り抜きの話を行う場合に比して努力が少なくて済む・・・従って、身振りは聞き手が費やす努力を軽減する可能性だってある。
 しかも、子供達がある概念を身につける過程にある時、話の中の概念ではなく、身振りの中の概念に関連する諸観念を思い描く(produce)方がしばしばより容易であることが見出される。・・・
 ・・・<ただし、>身振りそのものが学習を促進するわけではない。
 不釣り合いな(mismatching)情報を伝達する身振りだけが、より<学習>成果を高めるのだ。・・・
→この文章は特におかしい。原文に誤りがあるのではないか。(太田)
 子供達に段階的(step-by-step)演算法(Algorithm)を提供することは、彼等が、自分達にとって役に立つ原理を正視することを妨げる。・・・
 ただし、演算法が、それが本来手を携えるべき原理から<子供達の>気を逸らせるのは、それが話によって教えられた場合であって、身振りでもって教えられた場合ではない。
 身振りによって伝達された演算法は、子供達に踏むべき段階的手順を教えるが、(話によって伝達された演算法とは違って、)子供達にその手順にだけ依存することを促しなどはしない。
 恐らくは、身振りは、話ほどはっきりしたものではないので、それが伝達する情報は、話によって伝達される情報に比べて出しゃばる度合いが少ないのだろう。・・・
 身振りは、子供達に、原理と演算法のシナジー(synergy=共働)的関係に気づかせるのに優れているように見えるのだ。
 その理由は、多分、<原理と演算法>の二つを、話の場合は否応なしに連続的にしか提示できないけれども、身振りは、同時に提示することが可能だからだろう。・・・」(C)
 「熟慮する(cogitating)身体は、実地のアプローチを好むのであって、身振りは子供達が数学を身につけることを助けることが示されてきた。・・・
 4+5+3=□+3、といった等号式が苦手な学生達のパーフォーマンスは、彼等が正しい身振りでもって教えられると顕著に上昇する。
 左側の複数<(=二つの)>の数を二本指のV字で括った上で、右側の空白を人差し指で指すわけだ。
 ある対象を頭の中で回転させる方法を学ぶには、最初にパントマイムを試みるとよい。
 ・・・児童達に回転運動を手を使ってやるように促せば、彼等はその後頭の中だけでそれができるようになる・・・が、他人がそれをやるのを眺めているだけでは十分ではない・・・。・・・」(A)
 
3 終わりに
 京都外国語大学外国語学部英米語学科の坂本季詩雄教授
http://www.kufs.ac.jp/English/faculty/sakamoto/index.htm
は、
「・・・<一>神道=霊肉二元論(霊魂と肉体は別々の物で、大切なのは霊魂の方だ)縄文の昔から抱いてきた日本人の感覚
    <二>仏教=心身一元論(六世紀半ば、仏教伝来以来、人間の身体と心とは一体という考え)・・・
    <三>神道と仏教の共存=>神仏習合・・・
    <四>霊魂の存在を認める仏教ができあがる。・・・」
と記しています。
http://www.kufs.ac.jp/English/faculty/sakamoto/japanesenature.pdf
(<一>~<四>は、私がつけた。(太田))
 残念ながら、このペーパーには典拠がついていないのですが、教授の記していることを信じるとして、以上、ご紹介してきた最新の研究結果を踏まえると、霊肉(心と身体)二元論という点において、キリスト教同様、神道も間違っており、一元論に立つ仏教が科学的に正しい、ということになりそうです。
 ここでも、お釈迦様の人間洞察力の鋭さに脱帽です。
 
(完)