太田述正コラム#3692(2009.12.7)
<米国の世紀末前後(続々)>(2010.4.12公開)
1 始めに
コラム#3658と3660で、ジェームス・ブラッドレー(JAMES BRADLEY)の新著のご紹介をしたばかりですが、このたび、ニューヨークタイムスにブラッドレー本人によるコラム、しかも、いわゆる社説的コラム(Op-Ed)ではないけれど、社説的コラム執筆者(Op-Ed Contributor)による、と銘打ったコラムが掲載されました。
http://www.nytimes.com/2009/12/06/opinion/06bradley.html?_r=1&hp=&pagewanted=print
(12月7日アクセス)
だから、我々は、このコラムに注目しなければいけないのです。
上で言及した新著の紹介をさぼるのはまだしも、こういうコラムを直ちに紹介しない日本の主要メディア・・タイガーの醜聞の話は大々的に報じている・・など、改めて三文の値打ちもない、と思います。
2 ブラッドレーの言っていること
「・・・<セオドア・>ローズベルト大統領は、ロシア人達のファンではなかった。
「黒人、黄色人種、あるいは白色人種のいかんを問わず、ロシア人ほど、ウソつきで、不誠実で、傲慢で、要するにあらゆる意味で信頼できない奴らはいない」と彼は、日露戦争の終わり近くの1905年8月に記した。
他方、日本人達は、「すばらしく、かつ文明化された人々だ。だから、彼等は文明化された世界の他の全ての人々と完全な平等を与えられる権利がある」とローズベルトは記したものだ。
ローズベルトは、アジアへの拡大の跳躍板として、日本が朝鮮半島を切望していることを知っていた。
その前の1900年、当時まだ副大統領であったローズベルトは、「私は日本が朝鮮を保有して欲しいと思っている」と記した。
1904年2月に日本がロシアと国交を断絶すると、ローズベルト大統領は、公の席で、彼は「厳格な中立を維持する」と語ったが、私的には、彼は、「米国の気持ちは完全に日本の側にある」と記している。
<日露平和交渉が始まった>1905年7月・・・ローズベルトは、彼の息子に対する私信で・・・次のように言っている。
「私は、自分が<日露間の和平仲介に>動いたのはそもそも日本の依頼(suggestion)を受けたからだという事実を、あらゆる人に対して、文字通りあらゆる人々だぞ、隠してきた…。私が、この平和交渉ということに関し、日本の単に承認を得てではなく、日本が表明した欲求を踏まえ、日本に事前に通報しつつ、日本の要請に従って個々の手順を踏んで行ったということを、誰にも知られてはならないということを覚えておけ」と。
その何年も後に、ローズベルトに会った日本の使者は、同大統領が、「全てのアジア諸国は現在、今の時代へと自らを適応させる緊急な必要性に直面している。米国が米大陸において、この大陸の諸国の<今の時代への>移行段階において、その保護者として、随分前から、そしてモンロー・ドクトリンを手段として、ラテンアメリカ諸国を欧州諸国の干渉から保全してきたのと同様に、日本は、<アジア諸国が現代へと適応する>過程において、これら諸国の自然なる指導者たるべきである。日本のアジア諸国に対する今後の政策は、米国のその米大陸における隣人達に対するものと同様なものであるべきだ」との大統領の言葉を一言一句忠実に記録している。
1905年7月の日本あての秘密電信において、ローズベルトは、日本による韓国の併合を承認し、日本、米国、及び英国の間の「合意覚え書きないし同盟(understanding or alliance)」に、あたかも米国が条約上の諸義務を負っているかのように合意した。
ここで、「あたかも(as if)」というのが鍵なのだ。
というのは、米議会は、ローズベルトほど北アジアに関心を持っておらず、彼は日本との合意覚え書きを秘密裏に取り交わしたからだ。
これは違憲行為だった。
日本に対する彼の誓約(commitment)を裏付ける(signal)べく、ローズベルトは、朝鮮との国交を断絶し、ソウルの米代表部を日本軍に明け渡し、国務省の外交関係簿から「朝鮮」という言葉を削除し、それを「日本」の見出しの下に移したのだ。
ローズベルトは、日本人達は、朝鮮で止まり、残りの北アジアは米国人達と英国人達に残して置くだろうと思っていた。
しかし、このような希望的観測(wish)は、北米大陸を横切っての拡大から、ハワイとフィリピンの併合という形で太平洋へ、という米国のモデルに立脚した外交政策を日本もとるべきだとした彼の観念と相容れないものだった。
英米のパートナー達から自分達に科された地域的諸制約に対し、日本人達が嫌気が差すまでにはそう長い時間はかからなかった。・・・
・・・米大統領による支持のおかげで、日本人達は、安んじて軍事力を増強させ、帝国的諸野心を膨らませることができた。
1941年12月に、セオドア・ローズベルトの不注意(recklessness)の帰結が何であったかが、彼の秘密取引について知っていた少数の人間にとって、ついに明白なものとなった。
それ以外の人々にとっては、・・・日本がいかに上手に「我々のゲーム」をプレーしてきたかを知る由はなかったが・・。」
3 終わりに
もちろん、我々としては、彼の教えてくれた事実をありがたくいただけばいいのであって、彼の見解を拳々服膺する必要は毛頭ないのです。
ブラッドレーは、英米をパッケージでとらえており、かつローズベルトが日本に心酔していたかのように見ていますが、そのローズベルトの下で、英国を一番目、日本を二番目の潜在敵国とする作戦計画、レッド計画とオレンジ計画がつくられたことに全く目をつぶっています。
また、当時の米国の帝国主義と日本の帝国主義との違いを全く無視しています。
切実な必要性がないのに、イデオロギー的に中米や太平洋、更にはアジアに進出して行った米国とは違って、日本は安全保障上の必要性に迫られて台湾、朝鮮半島、更には大陸部に進出して行ったのであり、しかも、米国と違って日本は、進出した先を確実に文明化して行ったのです。
まことに皮肉なことに、米国が、ブラッドレーが言及した合意覚え書きを反故にし、日本を窮地に立たせることによって日本に強いた日米戦争で日本をたたきつぶした瞬間、米国は初めて、アジアにとどまる、安全保障上の必要性に直面させられることになります。
その相手は、言わずと知れた、かつての米国と日本の共通の仇敵であるロシアであったわけです。
米国の世紀末前後(続々)
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