太田述正コラム#3700(2009.12.11)
<国際連合の生誕(その2)>(2010.4.14公開)
 「・・・英連邦は、彼等なりのナショナリズムと国際主義(internationalism)を結合しようという試みだった。
 そして、彼等にとっては、国際連盟は、英連邦のもう一つのバージョンだったのだ。・・・
 <これに対し、>ナチスは、彼等もまた、欧州における平和のバージョンを持っていると宣言したわけだ。
 平和をもたらすのは、少数派の抹消(eradication)であると。
 ナチスに対する反対者達の間での議論は、国際連盟における少数派の権利<を認める>体制(regime)を<新たにできる>国連で再生産すべきかどうかということに収斂した。
 圧倒的な答えは否だった。
 どうしてか?
 なぜなら、やっかいなことを醸成する異議申し立て諸集団を守ることを我々に義務づけるからだ。
 第二次世界大戦前の欧州における最大の少数派は何か?
 それは、ドイツ人だ。
 そして何が起こっただろうか。
 だから、国連の創健者達の一般的な見方は、民族的に(ethnically)均質な(homogeneous)諸国家に有利なように、少数派の諸権利は棚上げすべきだというものだった。
 これは欧州の、ひいては世界の諸問題への解答かもしれないというのだ。
 例えばユダヤ人は、<その代わり、>自分達自身の国家を持って良いというわけだ。
 ユダヤ人の諸集団は、この議論の核心部分に関与した。・・・
 これが、国連が<ユダヤ人による>中東における植民地的移住者国家<の設立>を認めた(ratified)瞬間であったと言ってよい。
 あるいは、この瞬間は、国連が、<ユダヤ人の>欧州外における民族自決<の妥当性>を信奉することを明確にした瞬間であったと言えるかもしれない。・・・
 <それはさておき、>帝国主義的国際主義の鋳型の中でもともとは生誕したところの国連は、<皮肉にも、>すぐに諸帝国を瓦解させるのを助けることになった。・・・」(C)
→要するに、国連創建の最大の目的の一つがユダヤ人問題の解決であった、とマゾワーは言っているわけです。
 こうして国連がつくったイスラエルを、今や国連・・少なくとも国連総会・・は非難する側に立っているのですから、これもまた、皮肉と言えば皮肉ですね。(太田)
 「・・・もう二度と大戦が起こらないようにしたいという願いは、明らかに最高の重要性を持っていたが、国連の創建者達のねらいはもっと大きなものだった。
 彼等は、この機関が、人権を守り、自由を推進し、国際法を支えることが可能であって欲しいとも思ったのだ。
 しかし、彼等は、これが諸大国がこの営みに参画し続けることを確保する必要性と均衡がとれなければならないことを余りにも良く知っていた。・・・
 <国連の>多くの支援者達は、これが新しい出発ではなく、最近時点における、古い秩序を結晶化しようとする、就中諸植民地が帝国的統治の下にとどまることを確保しようとする、試みであると見た。
 マゾワーの出発点は、国連における修辞に関し、余りにもしばしば見られる諸特徴であるところの偽善の、とりわけ衝撃的な事例だ。
 一体全体、我々は、国連憲章の前文・・これは平和、諸権利、正義、進歩、そして寛容についての理想的な様々な声明に充ち満ちているテキストだ・・が部分的に、アフリカにおける白人の人種的優越と白人による統治の堅固なる防衛者たる南アフリカの首相のヤン・スマッツによって起草されたことをどうやって説明することができるというのだろうか。
 このパズルに対するマゾワーの解答は、我々を、19世紀末から20世紀初にかけての国際協力、帝国、英連邦、そして少数派を守ることに関する考えについての知的旅行に誘ってくれる。・・・
 核心的議論の一つは、創建時には継続性がほとんど語られないことが政治的に都合がよかったけれど、国際連盟と国連の間には、普通認識されているよりもずっと継続性がある、ということだ。
 国連は、要するに「国際連盟の焼き直し」であり、連盟が、(少なくともそれを構想した主たる責任者であった英国のキーマンたる思想家達や政策決定者達にとっては、)<英>帝国の維持と<英国の>米国との関係の強化という二重のねらいを持っていた以上、マゾワーにしてみれば、これらの観念の多くが国連にも持ち越されたことは、驚くべきことではないのだ。
 実際、持ち越されたのは諸観念だけではないのであって、いくつかのケースにおいては、俳優達もまた持ち越されたのだ。
 スマッツは国連憲章のテキストに影響を与えたが、彼は、ウッドロー・ウィルソンの国際連盟のための諸計画にも鍵となる影響を与えたのだった。
 もちろん、皮肉なことに、英帝国のための手段(instrument)となるどころか、非植民地化の急速な過程において、国連は文字通りその正反対のことをやったわけだ。
 国連が1945年に創建された時は加盟国は51だけだった。
 しかし、1969年には、それは126まで膨張した。
 新参国の過半は、アフリカとアジアの新しく独立した諸国だった。
 国連は、多くの反植民地闘争の重要なフォーラムとして役立った。
 この加盟国のプロフィールの変化の効果は抜本的なものがあった。
 突然、諸大国は、総会において数的に劣勢に立たされたことを発見した。(ただし、これら諸国の地位が守られていた安全保障理事会ではそうならなかった。)・・・
 
 ・・・どうやって少数派、とりわけ欧州のユダヤ人を戦後において守ることを確保するか。
 国際法の下における彼等の諸権利を保証することで足りるのか、それとも少数派の人々を移住させたり人種的に分裂している国家を分割したりするのが答えなのか。
 イスラエル国家の創設は、後者のアプローチの論理的帰結であり、それは民族自決に向けての他の<ユダヤ人以外からの>様々な要求へ防潮堤を開けることになった。
 それと同時に英連邦の中の緊張も高まったところ、インドによる南アフリカでのインド人達の扱いへの抗議は避雷針の役割を果たした。
 英国政府は、この紛争を解決する能力も意思も欠いており、議論は紛糾したまま国連総会に持ち込まれ、国連はタテマエ上は内政不干渉を謳っていたにもかかわらず、ジャワハルラル・ネール等は、そこで喝采を博した。
 ここにももう一つの皮肉があった。
 すなわち、スマッツの言葉(!)であるところの憲章の高尚な言葉が、反植民地主義者達によって援用されて独立への主張を正当化するために用いられたのだ。・・・
 国連は、何度となく、その創建者達の高尚な諸理想を遵守することに失敗していると酷評されてきた。
 しかし、もしもそれらの理想が、しばしばそう思われているほど道徳的に秀でているわけではないとしたら、そして、もしそれらが実際近代的諸感覚には合わないのだとすれば、<むしろ、>我々の期待の方を引き下げる必要があるのかもしれない。
 マゾワーは、我々に、修辞を無視するように語りかける。
 つまり、「道徳的コミュニティ」や「共通の文明」など国連には存在しないというのだ。
 国連は主権国家のクラブに過ぎないのであって、それ以上でも以下でもないのだと。・・・」(B)
4 終わりに
 残念ながら、断片的な書評類だけでは、マゾワーの新著の的確な紹介は困難であったと言わざるをえません。
 少なくとも確かなことは、マゾワーが、国連は、英国の国益の観点から、ユダヤ人やもう一つのbastardアングロサクソンたる南ア白人の知恵を借りつつ、(同じく英国が創建した)国際連盟を大幅に受け継いで創建された、と指摘していることです。
 しかし、時代の潮流にはあらがえず、国連がこの潮流に棹さした形で一人歩きを始めた結果、英国の目論見は、空しくも空振りに終わってしまった、とマゾワーは言っているわけです。
 そうだとすると、歴史の奸計的なものに、うたた感慨を覚えざるをえません。
 以下、全くの私見ですが、国連は、「下院」の優位の下で、各国が平等に一票を与えられる「上院」と、各国がその経済力と自由民主主義度に応じて投票権を与えられる「下院」から構成されるように将来改編されることが望ましいと考えています。
 そして私は、この「下院」における最大会派が、日本とアングロサクソン諸国と米国を中核としてこれにEU等を加えた自由民主主義連合であって欲しいと願っている次第です。
(完)