太田述正コラム#3920(2010.3.31)
<モスクワでの自爆テロ(その2)>(2010.5.11公開)
「・・・<シカゴ大学のある政治学教授は、2005年に出した本で、>自爆テロリストはイスラム教等の宗教というよりは、外国軍部隊が自分達の地を占領していることに対する怒りによって動機づけられていると主張した。・・・
・・・彼等の大部分は自爆した場所から数マイル以内のところに住んでいた。
(モスクワ地下鉄の自爆テロリスト達は、報道によれば、<住いの近傍でこそないが、>恐らくはチェチェン独立のために闘っているイスラム教徒ということだ。)・・・」
http://www.slate.com/id/2249309/
(3月31日アクセス)
3 今次自爆テロのあらまし
「・・・捜査官達は、二人の女性自爆者がモスクワ・・・に29日(月)の明け方に北カフカスの町から長距離バスで到着したと語った。
・・・<あるロシア紙によれば、>180~185cmのがっしりした男が彼女達についていた。・・・
<また、>複数のスラブ系の女性が自爆者を地下鉄に導き、彼女たちを目標地点まで連れて行ったように見える。
・・・月曜の事件が起きる前に「三つの暗号化された電報」が法執行諸機関に回覧されていた。
その警告には、「チェチェンのテロリスト達」がモスクワの「交通目標」における爆破を計画している、とあった。・・・
http://www.guardian.co.uk/world/2010/mar/30/russia-terrorism
(3月31日アクセス)
「・・・爆弾が炸裂した最初の駅は、旧KGBビル近くだった。
<駅の名前は>ルビヤンカ(Lubyanka)<だが、>それはKGBの非公式名称であり、ソ連の恐怖政治の象徴だった。
<爆弾が炸裂した次の駅は、>パルク・クルトゥリー(Park Kultury)、すなわち文化とリクリエーションの宮殿<駅>だった。
こちらの方は、・・・スターリン時代の陽気とさえ言える美学を体現した偉大なる全体主義様式の象徴だった。
まさに、パルク・クルトゥリーとルビヤンカは、ソ連時代の二つの側面であり、この二つの間の深淵を代表する対なのだ。・・・」
http://www.nytimes.com/2010/03/30/opinion/30kuznetsov.html?pagewanted=print
(3月31日アクセス)
「・・・<KGBのあった場所の近くには、その後継たるFSBがある。>
プーチン氏は、1990年代末期、FSBの長官だった。・・・」
http://www.nytimes.com/2010/03/30/world/europe/30moscow.html?ref=world&pagewanted=print
(3月30日アクセス。以下同じ)
「・・・モスクワ中心部における月曜の攻撃は、ロシアの諜報官達が通勤客の間にいて惨劇に巻き込まれる機会を最大化すべく企画されたように見える。・・・
ある米国の諜報官は、今やスパイ機関は武力集団の第一義的標的になったと語った。
スパイは対テロ作戦の最前線にいるからだと。・・・
月曜には、第二の、より強力でない爆発がパルク・クルトゥリー駅で12人の人を殺したが、ルビヤンカ駅の方が主たる標的であったように見える。
そこで最初の爆発があり、少なくとも23人が殺された。・・・
<なお、>FSBは、おおむね常にカフカス地方における襲撃、逮捕、尋問に関与している。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/03/29/AR2010032903593_pf.html
4 背景
「・・・<チェチェンにおける>1990年代のロシア軍の屈辱的な敗北の後、プーチンは、この叛乱地域の統制を回復するために第二次チェチェン戦争を開始し、復讐を叫ぶロシア大衆を前にして、この戦争によって、彼の政治的立場を固めた。
それまで山に棲息する叛乱者としてロシア軍部隊と戦ってきたカディロフ(Kadyrov)一族にチェチェンを切り盛りさせるべく、彼等を権力の座に据えたのもプーチンだった。
カディロフ父子には、安全保障の名の下に人権を無視することへの暗黙の了解が与えられるとともに、爆弾で破壊された<ところのチェチェンの>首都グロズヌイ(Grozny)を再建するためほとんど無制限に資金が与えられた。・・・
まず、カディロフの父親がクレムリンによってチェチェンの大統領に据えられた。・・・
その子の方のカディロフが、父親が暗殺されてからその後がまに就いた。
彼は、拷問、秘密牢獄、司法外殺人、戦闘員容疑者の親戚の家への放火を行ってきた<という。>
同時に、彼は、宗教的感情を喚起し、女性に顔を覆い隠すことを求め、一夫多妻制への復帰を奨励した。
その結果は、<チェチェンの>一般人を過激化させ、今や、彼等は、モスクワの頸城から脱するというより、聖戦を遂行することに焦点を置くようになったと分析者達は言う。
そして、戦闘員達は、チェチェンからイングーシ(ingushetia)とダゲスタン(Dagestan)へと脱出してきた。
そこでは、イスラムの諸哲学が部族間の競い合い、及び組織犯罪と混じり合ってきた。・・・」
http://www.latimes.com/news/nation-and-world/la-fg-russia-caucasus31-2010mar31,0,1368322,full.story
(3月31日アクセス)
「・・・前大統領であり依然としてロシアの最高指導者であるプーチン氏は、彼が評判を得るに至った成果の一部を、イスラム教徒の叛乱をロシア南部に閉じ込めることによって、近年、ロシアの人口の中心地域における大きなテロ攻撃を防いできたことに負っている。
仮に月曜の2つの爆発が主要諸都市における叛乱者の新たなる作戦の前触れであったとすると、プーチンの築き上げたこの評判は地に堕ちてしまうのだ。
この攻撃は、プーチン氏の被保護者たるドミトリー・メドヴェジェフ大統領の諸政策にも疑問を投げかけうる。
彼は、政府を自由化し、政治的多元主義を増大するとともに、テロに対して、叛乱の根本諸原因を解消する形で取り組むことを好んできた。
メドヴェージェフ氏はまだ大きな変化を実行に移してはいないが、プーチン氏は、全般的には彼が自分の道を進むことを許容してきた。
しかしテロが増えてくると、彼は、メドヴェジェフ氏を押しのけて、自分を取り巻く安全保障志向の顧問達を全面に出してくる可能性がある。・・・
・・・2004年に暴力の続発に直面した時、彼は、ロシアをテロに対して団結させるとし、全面的な政府の再編を行うことによってこれに対処した。
この再編は、同時にクレムリンに権力を集中させた。
彼は、地域の知事達について、直接選挙制を廃止して大統領任命制にするとともに、政治的無所属者が連邦議会へと選出されることをほとんど不可能にした。
彼はまた、安全保障諸機関の力を増大させた。・・・
・・・<これに対し、>2009年11月、テロリスト達はモスクワとサンクト・ペテルブルグの間の田舎を走っていた旅客列車を爆破し、26人の人々を殺害した。
<また、>先月、チェチェンの叛乱指導者のドク・ウマロフ(Doku Umarov)は、・・・ロシアの人口の中心地帯でテロ行為を組織すると・・・<公然と>脅した。
<一方、>昨年の6月、メドヴェジェフ氏は、カフカス地方を訪問し、異例の演説を行った。
その中で、彼は、妥協することなきプーチンの戦略に暗黙裏にけんつくを食わせるように見えた。
すなわち、メドヴェジェフ氏は、「北カフカス地方、というかロシア南部全般における諸問題は包括的なもの(systemic)であることを知らない者はいない。
かく言うことで、私は低い生活水準、高い失業率、そして大量かつ身の毛がよだつほど広汎な腐敗に言及しているのだ」と述べたのだ。・・・」
http://www.nytimes.com/2010/03/30/world/europe/30moscow.html?ref=world&pagewanted=print 前掲
(続く)
モスクワでの自爆テロ(その2)
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