太田述正コラム#3736(2009.12.29)
<政治的宗教について(続)(その4)>(2010.5.16公開)
→結局、ポーランドの自治は後退してしまい、独立は、第一次世界大戦後まで先延ばしされてしまうのです。(太田)
 「<イタリア半島の>ジェノア(Genoa)は、コスモポリタンな浪漫的ナショナリズムの宗教とでも呼ぶべきものの献身的唱道者の生誕地だった。
 マッチーニ(<Giuseppe >Mazzini<。1805~72年>)<(コラム#1757)>は神学に通じているとはお世辞にも言えなかったけれど、彼ほど宗教と政治を混同した者はほとんどいない。
 実際、彼の政治的著述は(風変わりな)宗教的つぶやきのように見えた。」(PP185)
 「1831年の夏、マッチーニと他の30人は青年イタリア党(Young Italy)を設立した。」(PP186)
 「フランス革命が抽象的な諸権利に固執したことから袂を分かち、青年イタリア党は、イタリア人が責任を負っているところの、民族的「使命」と道徳的義務を遂行すべきことを強調した。」(PP187)
 「<マッチーニに言わせれば、>個々の民族は、神から与えられた使命を持っており、その達成に貢献することはすべてのイタリア人の義務だったのだ。
 ナショナリズムは、共産主義や功利主義的自由主義・・これらをマッチーニは正しくも過度に物質主義的で集団主義的または個人主義的に過度に焦点をあてすぎていると見なしていた・・に対するより精神主義的な代替物だったのだ。」(PP188)
 「マッチーニの・・・ナショナりズムは、排外主義的傾向を欠いていた。
 実際、彼は「ナショナリズム」という言葉をどちらかというと否定的に用いがちであり、自分自身をむしろ「愛郷者(patriot)」と描写することをより好んだ。
 民族性(nationhood)は、個々人をして自分達自身のより高次元の集団的バージョンを達成せしめることを可能にする・・解放された諸民族がこれを人間全体のために実現することによって・・というわけだ。」(PP189~190)
 「<もう一つの考え方だが、>ピエモンテ(Piedmonte。トリノを中心とする地域
http://en.wikipedia.org/wiki/Piedmont (太田)
)の僧侶のヴィンセンゾ・ジオベルティ(Vincenzo Gioberti<。1801~52年。トリノ生まれの哲学者にして広報家(publist)にして政治家
http://en.wikipedia.org/wiki/Vincenzo_Gioberti
>)は、1843年に・・・、法王制とローマ・カトリック教の両方は、イタリア文明の栄光であり、<この文明は、>あらゆる他の文明よりも優れていると主張した。」(PP191)
 
 「カヴール(<Camillo Benso, conte di >Cavour<。1810~61年。ピエモント・サルディニア王国の宰相として活躍>)<(コラム#2121)>は、イタリア南部にはほとんど関心を抱いていなかった。
 というのも、多くの北部人達は「アフリカ」がナポリのカスバ街から始まると思っていたからだ。・・・
 <しかし、>マッチーニが、ガリバルディ・・・に<イタリア統一>戦争を、シチリア島での小規模の叛乱を支援するために同島に上陸することで、南方にまで拡大することを説得することに関わったことで、カヴールは、マッチーニの共和主義を君主主義によって置き換えつつ、民族的統一の目標を掲げる決意を固めた。」(PP193~194)
 「・・・1860年10月1日にブルボン家をヴォルテュルノ(Volturno)で打ち破った後、ガリバルディは、元の両シチリア王国を・・・統一への煮え切らない態度を取っていた(PP197)・・・ヴィットリオ・エマニュエレ(<Vittorio Emanuele=>Victor Emmanuel<。1869~1947年>)<(コラム#2985)>に献上し、カプレラ(Caprera)に隠棲した。
 ヴィクトル・エマニュエルは、何度かの国民投票の後、イタリアの初代の国王になった。」(PP194)
→イタリアの場合、言語は共有していても、歴史を共有していない二つの地域を無理矢理一つの民族国家にしてしまったという、これもまた愚行でした。ドイツに関しても、プロイセンとその他のドイツとの合邦は愚行に近かったと言えるかもしれません。(太田)
 「<ヴィクトル・エマニュエルとガリバルディは、それぞれ死後、民族的英雄に祭り上げられた。>
 様々な記念日、お祭り、歴史的絵画や学校の歴史教科書は、民族的教義(canon)を確立するための、その他の重要な方法だった。」(PP197)
 「<同様に、>1870年<に統一がなった>ドイツで<も、同年から>1900年にかけて、・・・新しい記念碑が続々につくられた。
 そのいくつかは、ライン川とモーゼル川の合流点のコブレンツのドイッチュ・エック(Deutsche Eck <=German Corner。三角形の地形。そこに統一をなしとげたウィルヘルム1世の巨大な騎士像が立てられた
http://en.wikipedia.org/wiki/Deutsches_Eck (太田)
>)・・・のように王朝的だった。
 その他のものは、とりわけ、ニーダーヴァルト(Niederwald)の巨大なゲルマニア(Germania=ドイツ)の像
http://www.rudesheim-rhine.info/z-niederwald-monument.htm (太田)
やチュートブルゲル(Teutoburger)の森のヘルマン(Hermann< the Cherusker=Arminius >)<(コラム#3556)>の像
http://en.wikipedia.org/wiki/Teutoburg_Forest (太田)
は、ナショナリズムが本来伴っていたところの自由と人間性の観念を放棄したホーエンツォレルン(Hohenzollern)帝国によって部分的にしか充足され得なかった、ナショナリストの情熱の産物だった。」(PP198)
→権威はあっても権力を持たない天皇をいただく天皇制の日本では、民族的英雄は出現しえません。いずれにせよ、日本はつくられたのではなく、できた、という点でイタリアやドイツとは決定的に違いますね。(太田)
(続く)