太田述正コラム#3750(2010.1.5)
<左脳・右脳・人間主義(その1)>(2010.5.17公開)
1 始めに
 左脳・右脳と言うと、角田忠信(コラム#2533、2767)のことを思い出される方がおられるかもしれません。
 しかし、今回取り上げるのは、日本人論としての左脳・右脳論議ではなく、欧米文明論としての左脳・右脳論です。
 対象は、イエイン・マクギルクライスト(Iain McGilchrist)が上梓したばかりの ‘The Master and His Emissary: The Divided Brain and the Making of the Western World’ です。
 本人によるコラムから始め、書評で補う、というやり方でご紹介しましょう。
A:http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704304504574609992107994238.html#printMode
(1月5日アクセス)(著者によるコラム)
B:http://www.guardian.co.uk/books/2010/jan/02/1
(1月2日アクセス)(書評。以下同じ)
C:http://www.literaryreview.co.uk/grayling_12_09.html
(1月5日アクセス。以下同じ)
D:http://www.economist.com/books/displaystory.cfm?story_id=14959719
 ちなみに、マクギルクライストは、オックスフォード大学の元フェローたる精神病医です。
2 マクギルクライストの言っていること
 「・・・言語、想像、論理的思考、感情といった、脳のどちらかの半球が掌っているとかつて考えられたほとんどどの機能は、両方の半球が掌っている。
 しかし、この二つの半球の働き方にはすこぶる大きな違いがあり、世界に対して全く異なった姿勢をとる。
 通常、我々は、無意識のうちにこの二つ<の姿勢>を総合する。
 しかし、二つの半球のどちらかが支配的になることがある。
 ある個人についてこれが起こりうるのと同様、ある文化全体についてもこれが起こりうるのだ。
 神経心理学上の様々な証拠は、右脳が世界に対して広く開けた関心を払い、全体を見るのに対し、左脳は細部に焦点を合わせることに長けていることを示している。
 新しい経験は、それがどんなものであれ、右脳の方がよりよく把握できるのに対し、予想できる事柄については、左脳の方がよりよく処理できる。
 そして、右脳は、物事を、文脈の中で、切り離すことができなく相互連結されているものとして見ることから、それは、暗黙裏のままの巨大な広がりを認識する。
 これとは対照的に、左脳は、その狭い焦点のゆえに、孤立的にものを見、間接的にしか伝達できない様々な事柄について相対的に盲目だ。
 人間においては、左脳は、物を掴む右手と、意味を明瞭に特定することを可能にするところの言語の諸断片、とをコントロールする。
 それは、我々の様々なねらいを追求するために世界を操作し利用するのを助けてくれる。
 左脳の世界は、司令部の部屋の壁にかかっている将軍の戦略地図のように、画然と輪郭が描かれていて確実であり、そこでは、世界の複雑さは捨象されている。
 しかし、我々が単純化し、切り離す以前の本質的な人間世界を、我々があるがままに見る必要性も依然としてある。
 将軍は、彼の兵士達が現実に戦う世界とふれあう必要性があるのだ。
 左脳によって取り次がれた知識は、閉ざされたシステムの中の知識だ。
 それは完璧という利点はあるが、かかる完璧さは、究極的には、中身のなさという代償と引き替えに得られたものだ。
 右脳は、もっとはるかに複雑で微妙な陰影のある世界を相手にする。
 右脳は、個別の機械装置ではなく、相互に連結し、生きている形態を与えられたところの、様々な実体を見る。
 コミュニケーションにおいて、右脳は非言語的、隠喩的、皮肉的または諧謔的なあらゆるものを認識するのに対し、左脳は直訳主義的(literalistic)だ。
 右脳は、曖昧さや両極端のものが両立可能かもしれないという観念を何とも思わない。
 我々が<このような>二つの半球を持っているのには理由がある。
 すなわち、我々は、世界についての両方のバージョンを必要としているのだ。
 右脳なしでは、我々は、社会的かつ感情的に鈍感となり、美、芸術、そして宗教について損なわれた理解を持ってしまう。
 <そうなると>まさに自閉症的になってしまい、我々は経験のより幅広い文脈についての感覚を持てなくなってしまう。
 他方、左脳なしでは、我々は細部に焦点をあてることが困難となる。
 もし、ある文化が片方にだけ過度に依存するようなことがあれば、早かれ遅かれそれは是正されなければならない。
 それなのに、欧米ではこのような不均衡が続いてきたのだ。
 その結果、過去2,500年にわたって、我々の脳の中で一種の戦闘が行われてきた。
 こうして、振り子が振れてきたにもかかわらず、左脳への依存がどんどん増してきたのだ。
 欧米独特の強みが、古典ギリシャで出現した。
 それは、両半球が相対的には独立的に、しかし、調和のうちに発達したおかげだった。・・・
 <ところが、>パルメニデス(Parmenides<。BC520?~450?年。南イタリア在住のギリシャ人。欧米哲学の祖と称される
http://en.wikipedia.org/wiki/Parmenides (太田)
>)により、更には、より一層プラトン<(BC427~347年>によって、哲学は、隠された暗黙のものへの敬意を旨とするものから、明示的たりうるものだけを強調するものへと変化したのだ。
 それまでの通念であったところの、両極端が握手しうるとの観念は、鼻つまみものとなったのだ。・・・
 <近代において、>モンテーニュ(<Michel Eyquem de >Montaigne<。1533~92年。フランス・ルネッサンスの主とも言える随筆家
http://en.wikipedia.org/wiki/Michel_de_Montaigne (太田)
>)・・・ヴィヨン(<Francois >Villon<。1431?~63?年。フランスの詩人にして盗賊にして無頼漢
http://en.wikipedia.org/wiki/Fran%C3%A7ois_Villon (太田)
>)・・・ギルランダイオ(<Domenico >Ghirlandaio<。1449~94年。イタリア・ルネッサンスの画家
http://en.wikipedia.org/wiki/Domenico_Ghirlandaio (太田)
>)・・・<そして>シェイクスピア<(1564~1616年)ら>は、かつての通念を復活させた。>
 しかし<欧米は>、宗教改革により、そして啓蒙主義の始まりにより、確実にして硬直し、固定した、そして単純化されたものを偏愛する心理へと再び戻ってしまったのだ。・・・」(A)
(続く)