太田述正コラム#3772(2010.1.16)
<シベリア出兵(その2)>(2010.5.21公開)
 「・・・ウィルソン大統領も彼の国務長官のロバート・ランシング(Robert Lansing)も、根っから、ボルシェヴィキ革命に反対していた。
 しかし、1917年11月に大統領と他の米行政府のメンバー達があからさまにボルシェヴィキを攻撃した時、英国政府は、米国に、「ボルシェヴィキに対して公然たる措置をとることは、[ドイツと]講和する彼等の決意を固めさせるだけかもしれず、また、ロシアでの反連合国感情を助長すべく利用されるかもしれない」と助言した。・・・。
 <そこで、>公的には、彼等は<ボルシェヴィキを>ドイツの手先と言及し、私的にはボルシェヴィキを「危険な社会的革命家達」と呼んだ。・・・
 1917年12月11日の夜、・・・ボルシェヴィキが権力を奪取してからわずか1ヶ月後、・・・ウィルソンとランシングは、・・・密接な関係のある同盟諸国とは無関係に、そして自分達の出先からの報告により、ボルシェヴィキはドイツ政府の手先ではないことを完全に知っていながら、反ボルシェヴィキ側に立って、「軍事的独裁制」を支持して、ロシア革命にに軍事介入することを決定していたのだ。・・・
 <(>・・・<しかし、>米国は、ボルシェヴィキに反対する、より適当な軍事勢力が出現するまで待たねばならなかった。その適当な軍事勢力は後に、1918年になって現れた。そこで、米国は軍事介入した。<)>・・・
 <その間、>1917年12月末に日本が軍事介入しようと提案してきた時、米国は反対した。
 ランシングは、日本の大使に、「米国または日本がウラジオストックに部隊を派遣すると、ロシア人達をボルシェヴィキの下に外国の軍事介入に対して結束させる結果になることは必至である」と伝えたのだ。・・・、
 ・・・1918年の1月に、米国のロシアにおける軍事顧問達は、米国政府に、当時まだロシアと戦争状態にあったドイツ軍の進撃に対して抵抗すべくボルシェヴィキを支援することを促した。
 また、2月には、フランス政府が公式に米国に対し、全般的にフランスとともに、ボルシェヴィキと協力してドイツに対抗するよう求めた。
 <しかし、>ランシングは、このフランスの公式要請をウィルソンに伝えた後、次のようなメモを残している。
 「こんなことは論外だ。この話を大統領に伝えたところ、彼も同じことを言っていた」と。
 これは、1918年2月19日のことだった。・・・
 ウィルソンは苛ついていた。
 恐らくそれは、日本が軍事介入について声を次第に張り上げつつあったところ、ウィルソンとしては、日本がボルシェヴィキから獲得することになるであろうところのものについて支配権を獲得することを欲しなかったからだろう。・・・
 <その後、やっとロシアに出兵した米国だったが、>最後の米軍部隊がロシアの地から米国へと去ったのは1920年4月1日であり、それは、第一次世界大戦が終わってから1年4ヶ月後、すなわち、ドイツ帝国主義ないしドイツの陰謀と戦ういかなる必要性もなくなってから1年4ヶ月後だった。しかも付言しなければならないのは、それが、主要な反ボルシェヴィキ勢力が粉砕された後でようやくなされたことだ。・・・」
http://www.corvalliscommunitypages.com/Europe/Russia_slavs/intervention_and_civil_war.htm
 「・・・ウィルソンは・・・1918年3月1日に日本のシベリア出兵を黙認するがアメリカ自身は干渉行動に参加しないとし、日本政府のシベリア出兵を容認する覚え書きを連合諸国に提示したが、当の日本政府にはその内容を通告しなかった。ところが、わずか7日後の3月7日に、ウィルソン大統領の態度が一変して、なぜか内容の全く異なった、現時点での出兵をロシア革命を擁護する立場から反対する通告を日本政府に提示したのであった。・・・
 <それから数ヶ月後、ようやく>ウィルソンからチェコ軍団救援のための限定出兵案<が提示された。>・・・」
http://homepage1.nifty.com/mizushih/essays/siberia.htm
 ここから分かるのは、英国政府にとっての優先順位が、第一次世界大戦遂行>ボルシェヴィキ打倒、であったのに対し、米国政府にとっての優先順位は、日本牽制>ボルシェヴィキ打倒>第一次世界大戦遂行、であったことです。
 ボルシェヴィキ打倒>第一次世界大戦遂行、の部分は、英国政府よりも米国政府の方が、その限りにおいては常識的な判断をしていたことを意味します。
 最も過激な民主主義独裁のロシアの方が、ほとんど絶対王制と言っても良い、アナクロのドイツやオーストリア=ハンガリーよりも危険に決まっているからです。
 ですから、ここは、第一次世界大戦に本格的に参戦していない、兵力的に余裕がある日本の部隊を前面に出す形で、日本に全面的に協力して、遅くとも日本政府が出兵の意思を伝えてきた時点で、それに賛意を表し、自らも同時に出兵すべきだったのです。
 結局のところ、ウィルソンは、当時の大部分の米国人同様、人種主義的帝国主義イデオロギーに囚われていただけでなく、「有色人種と女性差別、人権抑圧<を行ったところの、米国の>20世紀における最も反動的な大統領」(コラム#3728)であったために、日本牽制をボルシェヴィキ打倒よりも優先させたのであり、これは、当時の英国の首相がロイド=ジョージであったことに輪をかけた、日本、ひいては世界にとっての不幸であったと言うべきでしょう。
 このように、ウィルソンは、日本を牽制する方を優先したため、ロシア出兵の時期をいたずらに遅らせたのみならず、遅きに失した出兵後も、日本の牽制にばかり気を取られたため、自由民主主義陣営は、共産主義の脅威を蕾のうちに摘み取る千載一遇のチャンスを逸してしまった、ということになりそうです。
4 日本の先進性
 
 この時点で、日本を自由民主主義陣営に入れたことを奇異に思われる方もおられるかもしれません。
 しかし、日本が米国と同じ時期にロシアに出兵したのが1918年(大正7年)8月であったところ、その直後の1918年9月29日から1921年11月4日まで日本の首相を務めたのは原敬(1856~1921年(暗殺))であり、この原の下で、日本初の本格的政党内閣が発足したことから、日本はもはや自由民主主義国と言っても過言ではないと考えます。
 実際、原は初めて衆議院に議席を持つ政党(立憲政友会)の党首(総裁)という資格で首相に任命され、また閣僚も、陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣の3相以外はすべて政友会員が充てられたわけです。
 原は、外交における対英米協調主義と内政における積極政策、それに統治機構内部への政党の影響力拡大強化を推進するとともに、1919年には、それまで直接国税10円以上が選挙人の衆議院議員選挙の有権者資格であったのを3円以上に引き下げており、普通選挙制導入の基盤をつくりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
 原は、客観的に見て、ロイド・ジョージやウィルソンに優る政治家であったと言ってもあながち贔屓の引き倒しではないのではないでしょうか。
 この時点で、日本は、世界で最もグローバルにものを考えていた、主要国中最も傑出した政治家を指導者として擁していた、というのが私の見解です。
 繰り返しになりますが、原のカウンターパートのロイド・ジョージやウィルソンが、原よりもはるかにできが悪い政治家であったことが、世界にとっての禍機に自由民主主義陣営が結束して共産主義勢力を封じ込めることを不可能にしたのです。
 この時点ではシベリアのイルクーツクで戦っていた自由民主主義陣営は、その後、更にひどい反日的な対アジア政策を採り続けた米国のせいで、それから約30年後には朝鮮半島で戦い、約40年後にはインドシナ半島で戦う羽目に陥ったことは皆さんご存じの通りです。
 しかも、自由民主主義陣営は、その朝鮮半島では引き分け、インドシナ半島では「敗北」して現在に至っているわけです。
5 エピローグ
 「1920年・・・3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率い、ロシア人、朝鮮人、中国人4000名から成る、共産パルチザン(遊撃隊)が黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)の日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民約700名、日本人以外の現地市民6000人を虐殺した上、町を焼き払った。この事件を契機として、日本軍はシベリア出兵後も1925年に日ソが国交を結ぶまで石油産地の北サハリンを保障占領した。・・・
 1925年の日ソ国交開始に先立って上程された治安維持法がさしたる反対運動もなく成立した要因のなかに、このキャンペーンで植えつけられた対ソ悪感情が横たわっていた・・・
(小林幸男『日ソ政治外交史-ロシア革命と治安維持法』(有斐閣、1985年、234頁)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5前掲から孫引き)
 日本人は、この出兵の結果、一層強い反ロシア、反共産主義意識を抱くに至ったということです。
 なお、この対ボルシェヴィキ戦争(ロシア内戦)で、恐らく餓死者を含めて、1,000万人のロシア人等が死亡したと考えられています。(BBC前掲)
 しかし、シベリアでは餓死者は出ませんでした。
 「日本は・・・1922年10月、4600人の戦病死者を出し撤兵した。・・・最盛時3個師団(7万人)で4年3ヶ月戦ったにしては軽微な損害だった。・・・
 ・・・この4年3ヶ月シベリアに飢饉が生じなかった・・・この全期間を通じてヨーロッパロシアは人肉市場ができるまでの食料不足に悩んだ。少なくとも1000万人以上が1919年から1925年までの間に餓死した。これはヨーロッパロシアの南部穀倉地帯で発生した。・・・
 シベリアは元来食料は満州を通過して得ていた。東支鉄道は白軍が一貫して保持していたしその先は南満州鉄道だ。日本軍の補給もボルシェビキの協力(!)もあって順調だった。要するに敵対して生きていける環境にシベリアはない。食料はシベリア全土でほぼ円滑に流通した。また治安も悪くはなかった。結果として白系の人々の脱出に大いに貢献した。・・・」
http://ww1.m78.com/sib/siberian%20expedition.html
 日本が望んだような、非ボルシェヴィキの緩衝国家がシベリアに成立していたならば、シベリアはもとより、満州にも、そしてひょっとしたら支那においてさえ、第二次世界大戦前に、早くも繁栄した自由民主主義が定着していた可能性すらあります。
 何とまあ、人間は、就中米国人は愚かなことでしょうか。
(完)