太田述正コラム#3786(2010.1.23)
<人種主義戦争としての日米戦争(その2)>(2010.5.28公開)
ところで、ダワーは、以下のようなことを記しています。
「私は、・・・人種主義が太平洋戦争の決定的な要因だったなどといっているのではない。しかし私は、人種主義がこれまで知られていたよりもはるかに重要であったこと、それが連合国側でも日本側でも同じように行動に影響を与えたこと、そしてどちらの側にも差別的な人種主義者の思考パターンを確認することができること、こういったことを解明してみたいと思っているのである。」(?頁)
しかし、人種主義は日米戦争の決定的な要因であったのであって、ダワーがこのように言うのは、この本を米国で売るための韜晦ではないか、と私は疑っています。
また、ダワーは、当時の日本も米国等に対して人種主義的言辞を弄したと主張しています。
私は、これは、間違いなく韜晦であったと見ています。
というのも、
「西洋における人種主義は他の人々を侮辱することにきわだった特徴があったのに対し、日本人はもっぱら自分自身を高めることに心を奪われていた・・・
<日本人の>優越性の本質と言われたのは、要するに道徳主義的なものであった。・・・日本人は・・・自分たちのことを他の人々より「純粋」な存在・・・であることを示した。」(241頁)
という、当時の日本人の(自分達を除く)アジア人に対する姿勢は、私に言わせれば、イギリス人の(自分達を除く)世界の人々に対する姿勢に類似した、文明的優越感であって、断じて人種主義の発露ではなかったからです。
経済主義的アプローチは必ずしも適当ではありませんが、日本の場合、例えば、一人当たりGDPにおいて、当時から70年近く経た現在においてもなお、都市国家であるシンガポールを除けば、アジアの中でダントツのトップである
http://www.iti.or.jp/stat/4-004.pdf
こと一つとっても、この優越感にはそれなりの根拠があったと言うべきでしょう。
「厚生省研究部人口民族部の約40人の研究者によって執筆された・・・43年7月1日に完結し<た>・・・『大和民族を中核とする世界政策の検討』<によれば、>・・・アジアの他の人種と民族に対する恒久的な支配を確立することが、日本の究極の目的であった–彼等の必要に応じて、また優秀な民族にふさわしい運命として。」(314~315頁)
「・・・研究者たちは、・・・日本人自身を単に「日本人」というより「大和民族」と称することが多かった・・・中国人は「漢民族」と呼ばれた。厳密な生物学上の考察<、すなわち>・・・人種<的考察、は>・・・わずかな関心しかひかなかった。白人を魅するところ大であった白、黄色、黒という肌の色の大別も、同じように言及されなかった。・・・民族は「自然所与的な精神的運命共同態」であった。」(320頁)
からも裏付けられます。
なお、「他の人種と民族に対する恒久的な支配を確立する」というくだりについては、「人種と」については、ダワー自身の指摘にも反する記述であり、また、いずれにせよ、このくだりを裏付ける直接的典拠をダワーは示していません。
ちなみに、当時の日本が、アジアを自らを家長とする家族のように見ていたとする根拠として、ダワーは『国体の本義』をあげているところです。
「1937年に文部省が発行した『国体の本義』<は、>・・・我が国・・・特有の家族制度・・・<における>和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。夫々の集団には、上に立つものがあり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによって集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まった職分を最も忠実につとめることであって・・・このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である<、としている。>この・・・国内モデルの世界的規模への拡大は、1940年、大東亜共栄圏の発表・・・に関連して始まった。」(335~336頁)
「いくつかの計画の中で日本は親を意味し、兄または兄弟の役割は共栄圏の核をなす国々(中国、満州国、挑戦、台湾)に割り当てられ、南方の民族や諸国は若い弟の地位をあてがわれた。
・・・研究者たちは、共栄圏内の「同化」とは、他の国々を日本の水準にまで徐々に引き上げることのみを意味する、と明確に述べていた。」(339~340頁)
仮に、ダワーが「家族」という言葉をとらえて、日本のアジアにおける「恒久的な支配」確立意志の根拠としているのであれば、無知に由来するか意図的な歪曲です。
というのは、日本の江戸時代以降の「家」(家族)とは、商家を例にあげれば、「10歳前後で商店に丁稚として住み込んで使い走りや雑役を」行い、手代・番頭と出世した後、(丁稚であった者の300分の1程度に過ぎなかったとはいえ、)「30歳前後には暖簾分けされ自分の商店を持つことが許される」
http://wapedia.mobi/ja/%E4%B8%81%E7%A8%9A
というシステムであって、主人と被用者との関係は、血縁関係にある父親と子供のように恒久的に上下関係が維持される、というものではなかったからです。
銘記すべきことは、日米戦争は、欧米における人種主義を根底から突き崩した、ということです。
「日本のプロパガンダが白人の人種主義の実践を繰り返し強調してはいたが、<アメリカの>多くの非白人・・・<とりわけ>黒人・・の世界観を本当に変えたのは、日本の言葉ではなくて行動であった。日本人は、支配的な白人体制に敢然と立ち向かった。彼等の緒戦の勝利は、欧米に忘れがたい方法で恥辱を与えた。つまり白人の全能という神話、あるいは白人の実力という神話さえ永久に打ち壊したのである。日本人の勝利は、非白人が現代世界の進んだテクノロジーを発展させ、使いこなす能力のあることを立証した。」(230~231頁)
こうして、英国等の植民地は独立へと向かい、米国の黒人等への差別は徐々に解消へと向かうことになるのです。
そして、以下のような思惑もあり、とりわけ、米国における支那人差別は大きく解消へと向かいます。
「中国の巨大な人口および急速な工業化への大いなる将来性は、・・・1942年から43年にかけての・・・<中国人の>屈辱的な移民制限を廃止す<べきであるとする>論争できわだった注目を浴びた。・・・中国が「アメリカの工業製品にとって唯一の真の戦後の市場」を提供する、とまで言<う>・・・下院議員<までいた。>」(224頁)
「1943年12月、・・・中国人排斥法は改定され、毎年105人までの帰化可能な中国人の移住が許可された。その75パーセントは中国本土から、残りはアメリカ国内の一時的な居住者でもよかった。1924年の基本的な移民法は、他のアジア人に関しては不変のままだった。」(223頁)
対ソ、対共産主義意識において、日本はもとより、英国に比べてもはるかに遅れていた愚かな米国でしたが、以下のような人種主義的色彩を帯びつつ、先の大戦末期に、かかる意識において、米国がようやく「先進」2カ国に追いついたのは、皮肉と言うほかありません。
「日本は「負けることによって勝つ」ことができるという意見が、戦争が終わるまで多方面で根強かった。・・・その理由は・・・「東洋の諸国民は・・・人種蜂起を訴える<日本>帝国の意図・・・<という>ウイルス・・・にさらされている<からだというわけだ。>・・・第二次大戦が進むにつれ、ソ連と同盟国である英米との間の緊張が高まり、次の世界戦争についての危惧<が>・・・広まった。・・・人種戦争およびロシアと西洋との戦いは・・・<すなわち>黄禍および赤禍・・・「どちらの・・・が先か」<、いやそもそも、>・・・二つの戦いが一つになることは、容易に想像することができた。・・・「ロシアもアジアである」<と。>」(226~227頁)
日本が日米戦争を戦ったことには、世界史的意義があった、と私はあえて強調したいのです。
(完)
人種主義戦争としての日米戦争(その2)
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