太田述正コラム#3984(2010.5.2)
<選択の自由という重荷(その2)>(2010.6.3公開)
→選択の余地が少ない、つまりは不自由である方が人間は幸せである、という逆説を明らかにした、面白い研究結果です。(太田)
(3)研究3
「・・・イエンガーは、<1995年に京都で行った実験で、>日本人と米国人の学生達に自分に代わって誰かがやってくれてもよいと思っている意思決定のリストを書き出すよう求めた。
日本人は、何を食べるか、朝何時に起きるか、仕事で何をやるか等を他人にやらせてもよいと思っていたのに対し、米国人の大部分は、自分がどういう状況下で死ぬかだけしか他人に委ねたくないと思っていた。
選択の自由に固執することは尊敬すべき行動原理かもしれないが、結局のところ、満足するための最善の戦略ではない。
原理主義的宗教の信徒達は、個人的選択と行動に、より多くの規則と制限を課される傾向があるが、自由主義的な教会や無神論者のメンバー達より幸福であると自己申告するからだ。・・・」(A)
「・・・イエンガーが、京都で日本人と米国人の大学生達に、毎日行っている選択を記録するよう求めた時、米国人達は、歯磨きや居眠りといったものまでそれに含めたのに対し、日本人達は、これらの行動を選択の結果とは見なさなかった。
この二つの集団は似たような生活を送っていたけれど、それぞれが異なった形で生活を規定(define)していたわけだ。・・・」(B)
「・・・米国人学生達が、「選択」という言葉といかなる概念とを関連づけるかを聞かれた時、彼等は、独立、可能性、機会、そして夢、とりわけ「米国的夢(the American Dream)」といった言葉に言及した。
この<本、>『選択のアート(The Art of Choosing)』は、<そのタイトルからして、>選択への欲求は普遍的なものであることを示唆しているが、我々がどのように選択するかは文化によって異なっているというのだ。
イエンガーは、「日本人か支那人に同じことを聞くと、彼等は、責任、重荷、不安を思い浮かべる。
彼等は、選択を多大なる努力が必要とされるものであって、そのことには多くの潜在的諸結果が伴ってくるものである、と見ているのだ」と言う。
換言すれば、アジア諸文化の人々は、彼等の選択が他者に及ぼす影響をより強調する傾向があるのに対し、欧米の人々は、自分自身が個人的に何を欲するかに、より比重を置く傾向があるわけだ。・・・」(C)
「・・・イエンガーは、「我々は皆、自分自身の生活をコントロールする欲求と必要があるけれど、我々がコントロールについてどのように理解しているかは、我々が聞かされた物語と我々が持つに至った信条次第なのだ」と言う。・・・
イエンガーの報告によれば、米国人達は、「彼等の生活のあらゆる面において選択へのほとんど無限の欲求を表明した」。
しかし、日本人の学生は、一人として、自分達の時間の全てあるいはほとんど全てについて選択することを欲してはいなかった。
ミシガン大学アナーバー(Ann Arbor)校の心理学教授のシノブ・キタガワは、「シーナ<・イエンガー>の研究<が出る>までは、選択がこれほど文化によって異なるものだということがよく理解されていなかった」と語る。・・・」(D)
→「米国人」の構成を知りたいところですが、面白い研究結果ではあります。(太田)
(4)研究4
「・・・サンフランシスコの日本町の小学校の子供達を対象に彼女が行った実験を見てみよう。
半分はイエンガーが英国系米国人(Anglo American)と呼んだ子供達であり、半分は日本人または支那人の移民の子供達で家では彼等の両親達の母国語を使っていた。
・・・<実験だが、>一人一人の子供に、6包の言葉パズルと6種のマジックペンを見せた。
各包みには、それぞれ一種類の、動物、食べ物、サンフランシスコ等の綴り変え遊び(anagram)パズルが入っており、マジックペンは各種、異なった色のものだった。
三分の一の子供達は、どのパズルででも、また、どのマジックペンででも遊んで良いと言われた。
次の三分の一は、特定のパズルと特定のマジックペンで遊ぶように言われた。
最後の三分の一に対しては、・・・書類をぱらぱらとめくってその子供の母親からの指示を伝えたふりをした。
後の二つのケースでは、<あてがわれた>パズルとマジックペンは、本当のところ、自由に選択させた場合に一番多くの子供達によって選ばれたものだった。・・・
英国系の子供達は、自分がパズルとマジックペンを選ぶことができた場合に、言葉遊びのほとんどを解き、最も長い時間遊んだ。
ところが、アジア系の子供達は、自分がそれぞれの母親の希望に従っていると思った場合に一番良くやった。
英国系の子供達にとっては、母親の指示はボスから言い渡された制約のように受け止められたのだ。
対照的に、アジア系にとっては、自分自身のアイデンティティーを、おおむね自分の母親との関係において規定していたのだ。・・・
<ただし、>英国系とアジア系は、一つの重要な反応において共通していた。
・・・選択が見知らぬよそ者・・によってなされた場合は、どちらの集団の子供達も、それを押しつけられたものと感じ、否定的な反応を示したのだ。・・・」(D)
→これも、面白い研究結果ですが、研究4/3と研究2との関係をどう整理するか、課題があるように感じます。
つまり、英国系(非アジア系?)については、幼児の時と少年期の時とで、選択への姿勢に変化が起きているように思われるが、仮にそうだとして、そのことをどのように説明するか、という課題です。
なお、日系と支那系をいっしょくたにして実験対象とすることは、米国の行動科学においてしばしば見られるところであり、私には、米国の社会科学者達の人種主義的偏見を反映しているように映ります。(太田)
(続く)
選択の自由という重荷(その2)
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