太田述正コラム#3832(2010.2.15)
<欧州人アーサー・ケストラーの生涯(その1)>(2010.6.18公開)
1 始めに
 出たばかりのマイケル・スカメル(Michael Scammell)の本、’Koestler: the Indispensable Intellectual’ の書評類を通じて、私見では、一つの典型たる欧州人であるアーサー・ケストラー(Arthur Koestler<。1905~83年。ブダペスト生まれのユダヤ人、オーストリア、ドイツ等を経て最終的に英国に落ち着き、英国籍を取得。小説家・エッセイスト・ジャーナリスト
http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Koestler
>)の生涯を振り返ってみましょう。
A:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/7205860/Koestler-The-Indispensable-Intellectual-by-Michael-Scammell-review.html
(書評)(2月14日アクセス。以下同じ)
B:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article7013714.ece?print=yes&randnum=1266151655140
C:http://www.literaryreview.co.uk/gray_02_10.html
D:http://www.spectator.co.uk/print/books/5765858/a-dangerous-fellow.thtml
E:http://www.guardian.co.uk/books/2010/feb/14/arthur-koestler-appreciation
(ケストラーについてのコラム)
F:http://www.guardian.co.uk/books/2010/feb/14/arthur-kostler-biography-scammell-extract
(抜き刷り)
2 アーサー・ケストラーの生涯
 (1)女性関係
 「・・・ケストラーは、性的弱い者虐めとして知られている。
 ボーボワールは、彼が荒々しいセックスが好きだと描写した。
 1998年に出た<ケストラーの>伝記の中で、著者のデーヴィッド・セサラニ(David Cesarani)はこれに火に油を注いだ。
 1940年代にケストラーが、労働党の政治家のマイケル・フット(Michael Foot<。>1913年~。英労働党党首:1980~83年
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Foot (太田)
>)の奥さんのジル・クレイギー(JillCraigie<。1911~99年。イギリスのドキュメンタリー映画監督・俳優・作家・フェミニスト
http://en.wikipedia.org/wiki/Jill_Craigie (太田)
>)を強姦したと仄めかしたのだ。
 <証言者がクレイギーしかいないし、何事も日記に記したケストラーが日記にそんなことは全く書いていないことから、>この仄めかしには若干の疑問符がつかないわけではないが、<ケストラーはその時泥酔していたというので、本人に全く記憶がない可能性もあり、>仮にこれが本当ではないとしても、そういうことがあったとしてもケストラーのことだから決してありえないことではない、というのが一般的なコンセンサスだ。・・・」(E)
 「・・・ケストラー自身、自分が「絶対主義性癖(absolutitis)」とこの強迫観念にとらわれたような女誑しの性癖とが関連があることを全く疑っていなかった。・・・
 この「ナントカ主義のカサノバ(Casanova of causes)」は、自称していたように、連続女誘惑者であり、その目的を達するためには暴力を用いることを厭わなかった。・・・」(C)
 「・・・スカメルがケストラーがその生涯において大勢の女性達をどう扱ったかについて描く絵は瞠目させるものがあり、たとえ<上記の>「強姦」がなかったとしても<我々に>ひどく不愉快な思いをさせる。
 彼は、操作的であり、要求が多く、性的に貪欲であり全く持って神もへったくれもない<人間だ>。
 <彼は、>何度も<女性を>妊娠させては強いて中絶をさせた。
 ある時には、<それでも>子供を産んだ女性がいたが、彼はその子供に会おうともしなかった。・・・」(A)
 「・・・アーサー・ケストラーについての最大の見物は、彼の性生活だ。
 最も頭をひねるのは、どうやって彼がそのための時間をつくったかだ。
 マイケル・スカメルのこの権威ある伝記は、ケストラーが、彼のジャーナリスト兼小説家としての立場から、厳格な労働倫理を実践しており、7時に起床し、冷水浴の後、晩までたゆまず執筆を続けたということを教えてくれる。
 それでも彼は、英雄的な規模で女誑しを行った。
 時には、彼は5人との情事を平行して行い、それぞれについて嬉々として日記に記した。
 同衾したある女性は、自分よりも以前の「100人から200人」の女性の名前のリストに出っくわして仰天した。
 彼はその撃沈率を稼ぐために手間暇を切り詰めた。
 ある元情婦は「彼は私が着物を脱ぐ暇をほとんど与えなかった」と回想する。
 ケストラーは、女性は強いられることを好むと信じていたので、前戯など無用だと思っていた。
 彼は、2番目の妻・・・に「最初は強姦で始まるといった要素がないと面白くも何ともない」と説明したことがある。・・・」(B)
 「・・・大人になってからの彼の生活はあくことなき女性の誘惑であり、それに彼はおおむね極めて成功した。
 こんな調子であったから、あえて言うならば、彼はちょっとしたジョークになった。
 とりわけ、<やはりケストラーの情事の相手だった>シモーヌ・ド・ボーボワール(Simone de Beauvoir<。1908~86年。フランスの作家・実存主義哲学者・フェミニスト・社会理論家
http://en.wikipedia.org/wiki/Simone_de_Beauvoir (太田)
>)が、コスモポリタンなインテリについての彼女の小説である、ゴンクール賞を受賞した、『レ・マンダラン(Les Mandarins) 』(1954)の中で見事なパロディーとして彼の誘惑技術を描いた後はそうであり、英仏海峡の両側で多くのくすくす笑いを生んだものだ。・・・」(D)
(続く)