太田述正コラム#3834(2010.2.16)
<欧州人アーサー・ケストラーの生涯(その2)>(2010.6.19公開)
(2)青年期
「スカメルは、女性を支配するのが、ケストラーの劣等感解消の手段だったと考えている。
ケストラーは、1905年にブダペストで生まれ、ユダヤ人の両親は彼を溺愛した。
父親は金持ちの実業家であり、ケストラーを贅沢な環境で育てたが、彼は臆病で不安な少年となり、得意なものが何もなかった。
彼は、技術工科学校に送られ、工学を学んだが、<20歳の時に>シオニズムにかぶれ、卒業しないままパレスティナに渡ってキブツに入り込んだ。
彼はすぐに、農業労働は性に合わないことを悟り、ジャーナリズムに転じ、ベルリンの新聞の科学記者の仕事を始めた。
しばらくの間、彼のユートピア的夢として、科学がシオニズムに取って代わった。・・・
しかし、ユートピアへの障害がすぐに現れた。
彼がベルリンに到着した頃、ヒットラーの国家社会主義者達が大躍進したドイツ議会選挙が行われた。
ナチズムにおける反ユダヤ主義的要素は既に明白であり、ケストラーは<ドイツ>共産党に入党した。
その折、彼を疑う同党幹部に対し、自分は工場で働きプロレタリアートと交わりたいと思っていると伝えた。
この同志的熱意はすぐ冷め、その代わり、彼は、ソ連に赴き、そこで産業化の勝利について熱烈に書く一方で、ウクライナでの飢饉については<党に忠実に、それを>否定した。
1936年には、スペインで、<共産党の指令に基づき、>内戦についての報道に従事していた彼は、ファシストによって捕らえられ、最初はマラガで、次いでセヴィリアの獄につながれた。
嫌疑は、共産党のスパイではないかというものだった。
独房の中で、彼は囚人達が何人か一緒に外の廊下を処刑場に向かって追い立てられていく気配を何度も感じた。
<1937年の>ある時、どしんどしんという足音が彼のドアの前で止まったが、「奴じゃない」という声が聞こえ、足音は遠ざかっていった。・・・」(B)
「・・・ケストラーは、ブダペストとウィーンで教育を受けた。・・・
そして、旅に次ぐ旅を重ね、長短取り混ぜ、都合13カ国に住むことになる。・・・」(E)
(3)壮年期
「・・・第二次世界大戦が勃発した時、彼はフランスに住んでいた。
彼がヒットラーの手から逃れられたのは奇跡に近かったのだが、彼は最終的に1940年に英国に逃亡した。
そして、その地で知的有名人として自分自身を確立した。
彼は、ジョージ・オーウェルやシリル・コノリー(Cyril Connolly)からジャン=ポール・サルトルやティモシー・リアリー(Timothy Leary)に至る人々とつきあい、その間、彼は積極的なる性生活を送った。
彼は何百人もの女性を征服し、その中にはシモーヌ・ド・ボーボワールも含まれていた。・・・
彼の最も良く知られた二つの著作は、1940年の小説、『真昼の暗黒(Darkness at Noon)』とリチャード・クロスマン(Richard Crossman)編になる1949年の論考集『堕ちた神(The God That Failed)』に収録され論考だが、このどちらも、彼の痛みを伴いつつ行った共産主義の否定によって鼓吹されたものだ。
これらの著作は、今日においても素晴らしく新鮮であり、ソ連のシステムの邪悪さについて欧州の左翼かぶれの知識人を説得するのに決定的に重要な役割を果たした。・・・」(E)
「・・・『堕ちた神』は、共産主義に幻滅するに至った人々による論考集だが、20世紀中頃において最も大きな影響力を持った本の一つだ。
<その中に収録された>アーサー・ケストラーの論考、「綱渡り者の回顧録(Memoirs of a Tightrope Walker)」は、党の他の忠実な党員同様、彼が「自己欺瞞の綱」の上にとどまるために、どのようにあがき、最終的に1939年のヒットラー・スターリン条約によって真っ逆さまに<その綱から>落ちたことを描写した。
他の有名な寄稿者達は、アンドレ・ジード(Andre Gide)、スティーブン・スペンダー(Stephen Spender)、そしてイグナチオ・シローネ(Ignazio Silone)だった。
しかし、その誰も、当時においては、アーサー・ケストラーほどの有名人的地位にはなかった。・・・
・・・一冊の見事な本、『真昼の暗黒』は、スターリンのショー的裁判、及び、理想的な様々な理由からスターリン主義を支持した人々の犯した道徳的自殺、のねじ曲がった論理を暴露したものだ。・・・
この本は、ロンドンで1940年に出版された。
戦後すぐフランスで出版された時には、2年間で50万部も売れた。
中には、そのせいで1946年のフランスの憲法に関する国民投票で共産党が敗北したと主張する者までいる。
これで力を得たケストラーは、すぐにサルトルやカミュとつきあうようになり、米国での講演旅行・・・彼はロサンゼルスで<映画俳優の>ゲーリ-・クーパーやロナルド・レーガンによってもてなされ、<同じく映画俳優の>マリーネ・ディートリッヒと一緒にニューヨークのナイトクラブをはしごした・・を享受し、自分の山のような著作権料や出版前払い金を湯水のように費消した。・・・」(A)
「囚人の交換を通じて釈放されたケストラーは、その時の試練を踏まえ、主要作たるフィクション『真昼の暗黒』(1940)を書いた。
彼は、スターリンの1930年代のショー的な裁判の、考えられないような犯罪について無辜の被告達が自供するという、あくどいばかばかしさに衝撃を受け、目が覚めた。
『真昼の暗黒』は、ソ連の話であることがバレバレであり、こんなことを引き起こした心理的圧力を理解しようとしたものだ。
この本を書き終わった時までに、彼は共産党を去り、再び牢獄に入っていた。
彼は、フランスの強制収容所において、鰯の缶詰の油ランプの光でこの小説を書いたのだ。
ドイツ軍がパリに進撃してくると、彼はフランス南部に逃走し、更に英国に到着したが、そこで彼はペントンヴィル<収容所>に閉じ込められ、MI5によって尋問された。
彼をハンガリーに送り返すことは死刑に処するようなものだったので、彼は、英工兵部隊(<Royal >Pioneer Corps)に編入された。
フランコのならず者達には耐えた彼が、短い期間英国の歩兵達と行動を共にしただけで完全に精神的にまいってしまった。
疾病除隊となったケストラーは、反ナチ・プロパガンダを英情報省のために書く仕事を与えられ、戦時のロンドン文人世界の溌剌たる一員となった。・・・」(B)
「・・・彼の『真昼の暗黒』は、・・・再読したい気を起こさせるような古典の類ではないが、当時もそれ以降も、ソ連共産主義に対して、他のいかなるフィクション作品よりもダメージを与えた。
知識人達に対してマルキシズムの危険性について注意を喚起したという点で、ケストラーは英語圏でこそオーウェルよりも影響力を発揮したとは言えないが、欧州大陸においては、彼にかなう者はいなかった。
しかも、彼はその後も絶え間なく講演をしたり、語ったり書いたりし、かつまた、文化的自由のための会議(Congress for Cultural Freedom)で中心的役割を果たし、彼の死後、レーガンやサッチャーや法王ヨハネ・パウロ2世によって政治的・経済的に勝利するよりも前に、欧米が知的に冷戦に勝利することを確実なものにしたのだ。・・・
1998年に世界中の作家と知識人からなるパネルが、投票の結果、『真昼の暗黒』を20世紀における、8番目に優れた小説であると同時に最も重要な小説であるとした。・・・」(D)
(続く)
欧州人アーサー・ケストラーの生涯(その2)
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