太田述正コラム#3860(2010.3.1)
<ショパン生誕200年(その1)>(2010.6.21公開)
1 始めに
 今年は、ショパン誕生200周年であり、本日は、彼の誕生日です。(2月22日説もある。)
 そこで、ニューヨークタイムスの追憶記事と、上梓されたばかりのアダム・ザモイスキ(Adam Zamoyski)の’Chopin: Prince of the Romantics’の書評をもとに、ショパンについて振り返ってみることにしました。
A:http://www.nytimes.com/aponline/2010/02/19/arts/AP-EU-Poland-Celebrating-Chopin.html?pagewanted=print 
 (記事。3月1日アクセス(以下同じ))
B:http://www.ft.com/cms/s/2/5d014f88-2262-11df-a93d-00144feab49a.html
 (書評(以下同じ))
C:http://www.economist.com/culture/displaystory.cfm?story_id=15450490
D:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/7256450/Chopin-Prince-of-the-Romantics-by-Adam-Zamoyski-review.html
1 ショパンの生涯
 「ショパンは1810年にワルシャワ近くの・・・田舎の荘園邸宅で生まれた。
 母親はポーランド人で父親は亡命フランス人だった。
 誕生日は、歴史上の典拠によれば、二つ可能性がある。
 教会の記録では2月22日だが、ショパンと彼の母親との手紙で言及されているのは3月1日だ。
 後者の方が本当らしいと考えられている。・・・
 ショパンの作品全部を一挙に演奏すると約15時間かかる。・・・
→ショパンは比較的若くして亡くなったわけですが、それにしても、たったそれだけにしかならないのか、という感慨にとらわれます。もちろん、芸術なんて、量じゃなく質が勝負なのですが・・。(太田)
 ショパンは、ポーランド人としての強いアイデンティティーを抱き続けた。
 彼は、できる限りフランス在留のポーランド人達に囲まれていようとしたし、フランス語には最後まで違和感を持ち続けた。・・・
 ショパンの当時、ポーランドは、ロシア、プロイセン、それとオーストリアによって分割されており、国家としては存在していなかった。
 1830年には、ショパンが欧州巡行に出発した直後、ロシアの支配者達に対する叛乱がワルシャワで起きた。
 それがむごたらしく鎮圧され、ロシアによる弾圧期が始まった結果、ショパン以外の大勢のポーランド人の芸術家達が亡命せざるをえなくなった。
 ショパンは二度とポーランドに戻ることはなかった。
 そんなことをすると、「亡命している他のポーランド人から裏切ったとみなされるからだ」とザモイスキは語る。
 「彼等の多くは、帰国したら投獄されるだろうし、最悪処刑される可能性があった」と。・・・」(A)
 「・・・ロンドンのピカデリー近くのセント・ジェームス・プレース4番地にある青いプレートには、「1848年にこの家からフレデリック・ショパン(Frederic Chopin。1810~49年)は、ギルドホールに赴き、彼にとって最後の<ピアノ>公演を行った」とある。・・・」(D)
 「・・・ショパンは、1848年に、革命を逃れるためにパリから逃れ、イギリスとスコットランドを公演して回った。
 旅行のストレスが彼の気力を完全に奪い、彼の創造的精神は萎えてしまった。
 「どうして神は私をただちに殺してくれないのだろう」と彼は泣き言を記している。
 最期はすぐにやってきた。
 パリに戻ると彼は咳をする時に血を吐くようになった。
 こうして彼は亡くなった。独りぼっちで悲しく・・。・・・」(C)
→改めて、彼の葬送行進曲(コラム#2966)と遺作(コラム#3095)をお聴きください。
(続く)