太田述正コラム#4036(2010.5.28)
<米国の国民性(その3)>(2010.6.28公開)
 (4)人間主義化?
 「・・・何世紀にもわたる物質的かつ社会的拡大はより多くの人々により典型的な(characteristically)「米国人」・・・すなわち、それは何よりも、しつこいまでに独立的であると同時になおかつ社会的で努力家で情にもろい<「米国人」>・・・たらしめた。・・・
 米国人の自己利益志向性の程度は何世紀にもわたってほとんど変わっていない。
 しかし、見方を変えれば、米国人の性格は変わったのだ。
 変わったのは、例えば、・・・何世代にもわたって・・・より情にもろくなったことだ。・・・」(E)
→これは、できそこないの(bastard)アングロサクソンたる米国人のまっとうな(legitimate)アングロサクソン化、すなわち、人間主義的個人主義者たるイギリス人化であるかのように見えます。
 しかし、その原因は、一つには日米戦争のインパクトによる米国の人種主義崩壊プロセスの始動(コラム#4035)であり、もう一つには、その後の日本の米国への属国化に伴う文化交流の促進がもたらした人間主義の普及である、というのが私のとりあえずの仮説です。
 すなわち、米国は純粋アングロサクソン化しつつあるのではなく、日本化しつつある、と考えたらどうかということです。(太田)
5 フィッシャーに対する批判
 「・・・’Made In America’ はもっぱら、白人の米国生まれの北方のプロテスタントの中産階級の物語だ。
 だからこそ、フィッシャーは、「<米国人は、米国>社会の明確に他と区別されるところの支配的性格を生き、広めるのだ」と主張する。
 この性格は、時間の経過とともに、より多くの、あらゆる人種、信条、そして所得階層の米国人によって共有されるところとなったというのだ。
 「米国には文化的中心がある。その同化的引力は強力であり、他と明確に区別され、あるいは「例外的である」」とフィッシャーは記す。
 「歴史の記録がそのことを物語っている」と。・・・
 このようなフィッシャーの分析は、伝統的なマルクス主義的唯物論とは正反対だ。
 彼の手にかかると、唯物論的分析は、阻害された労働者階級ではなく、次第により繁栄的、かつ包摂的となる米国的主流を顕現させるのだから・・。・・・
 <しかし、>今日においては、<フィッシャーが主張するところの>米国のボランタリズムの成功物語は失速した、ということを否定するのは困難だ。
 植民地時代から、米国人の生活の質は欧州人のそれを上回っており、我々の一人当たりGDPは依然として大部分の欧州諸国のそれをはるかに上回っているけれど、寿命、経済的上昇可能性(mobility)といった他の指標では、我々の生活水準は1970年代よりも下がっており、爾来、一度も回復したことがない。
 また、富者と貧者の格差は縮小しておらず、拡大している。
 更に、現在の両極分解した現代政治の状況下では、ボランタリスティックであるか否かはともかく、統一された世界観を<米国において>見出すことは困難だ。
 かかる観点からは、フィッシャーが「非主流」の<人々の>苦闘を却下したのは余りにも無頓着であるし、知的(intellectual)歴史の彼による軽薄なる無視は、我々を、例えば、どうして米国人は貧者と病者を最も良く面倒を見る方法について合意できないのかに係る、物質的な理由(reason)だけではなく、哲学的な理由を理解するための枠組を与えずに放置するものだ。・・・」(B)
6 終わりに
 フィッシャーは、恐らく意識しないまま、極めて重大な問題提起をしています。
 ボランタリズムの普及が、最近において米国を富者と貧者、世俗派とキリスト教原理主義者へと二極分化させたのはどうしてなのか。
 また、そもそも、キリスト教原理主義がかくも米国で最近再流行するに至ったのはどうしてなのか、という問題提起です。
 これから申し上げることも、私のとりあえずの仮説ですが、米国において、多人種化が進んでアングロサクソンが米国の主流から退く一方で、日本人抜きの日本化が進行したおかげで、米国は、人種主義こそ克服しつつあるものの、文字通り、歴史や文化を共有しない人々の寄り合い所帯になってしまった、と考えればどうでしょうか。
 そうだとすれば、これは、まことに索漠たる風景であると言わざるをえません。
 そして、かかる背景の下、富者は世俗的なコミュニティーに自主的(ボランタリスティック)に群れ集い、ますます富んで行くのに対し、貧者は様々なキリスト教原理主義会派に自主的(ボランタリスティック)に逃避する形で群れ集い、互いに傷をなめあいながら一層貧しくなって行く、と考えるわけです。
 私は、最近の米国は中南米化しつつあるとも指摘してきました。
 ひょっとすると、カトリック信徒が圧倒的に多く、かつ、イベリア文化が国民全体に浸透したと言ってもよい中南米諸国と比較すると、米国の方が事態は深刻なのかもしれません。
 このことも含め、更に考えを深めたいと思います。
(完)