太田述正コラム#4038(2010.5.29)
<「白人」について(その1)>(2010.6.29公開))
1 始めに
 ネル・アーヴィン・ペインター(Nell Irvin Painter。1942年~)が ‘The History of White People’ を上梓したので、書評等でもってそのさわりをご紹介しましょう。
A:http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=124700316
(5月28日アクセス)(この本の抜粋)
B:http://www.ft.com/cms/s/2/d5eb8e8e-645e-11df-8cba-00144feab49a.html
(5月26日アクセス)(書評。以下同じ)
C:http://www.nytimes.com/2010/03/28/books/review/Gordon-t.html?pagewanted=print
(5月28日アクセス)(以下同じ)
D:http://www.popmatters.com/pm/review/123622-the-history-of-white-people/
 なお、ペインターは、黒人女性たる前プリンストン大学教授で、米国史家です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nell_Irvin_Painter 等
2 序に代えて・・古典ギリシャと奴隷
 「・・・プラトンは50人の奴隷を所有していたが、<当時のアテネでは、>10人以上の奴僕(bondspeople)を持っている人はざらだった。
 街を徘徊したり長期の軍事戦役に出かける時には、アテネの紳士達は、いつも1人か2人の奴隷を引き連れていた。
 紀元前5世紀と4世紀においては、アテネだけでも80,000人から100,000人いた奴隷は当然のことながら、数的に自由な人々を上回っていた。
 多数の奴隷の女性達が、主として家庭における任務に携わっており、性的、医療的、家事的なサービスを提供していた。
 それに対して、多数の奴隷の男性達が、熟練していた者も非熟練の者も、野外で、あるいは船上で、そして工場で労働を行った。
 アテネ人達は、奴隷にしたスキタイ人の警官300人から1000人を使っており、彼等は熟練した射手として知られていた。・・・
 ・・・アリストテレスは、『政治学(Politics) 』巻1の3~7と『ニコマコス倫理学(Nicomachean Ethics)』巻7で、奴隷制は当たり前のことであると、また、奴隷にされる者は本来的に奴隷的な本性を持っていると論じた。・・・」(A)
→ペインターの本のこの部分が、以下とどのようにつながるのかは必ずしも定かではありませんが、興味深いのでご紹介しました。
 何度も申し上げているように、昔のアテネが民主主義と言えるかどうかは、(当然女性には参政権がなかった上、)奴隷のほか、外国出身者も多数おり、彼等に参政権がなかった以上、疑問です。
 (女性にはもちろん参政権がなかったし、)奴隷もいたけれど人口比でアテネほど多くなかった建国時の米国は、民主主義の観点からは、若干マシであったと言えるでしょう。(太田)
 
3 「白人」の歴史
 (1)前史
 「・・・古典ギリシャ人が彼等の「野蛮な」北方の隣人達であるスキタイ人とケルト人を認識した時、彼等はギリシャ人が普通だと思っていたものよりも白い肌を持っていた。
 昔の人々の大部分は、人々の間の違いを身体的にではなく文化的に定義しており、しばしば、より白い人々を文明化の程度が低い人々であると見なしていた。
 何世紀も後に、欧州の旅行作家達は、より白い肌のチェルケス人(Circassian)、別名カフカス人(Caucasian)、を奴隷にしか最も向いてはいない人々と見なしていたが、それと同時に、チェルケス人の奴隷の女性を美人の典型と見なしていた。
 劣等とされる「人種」の女性をエキゾティックにして性的なものとすることは、人種的思想における長く継続的な歴史だ。・・・
 近代における白人性(whiteness)の知的歴史は、人種「科学」を生み出した18世紀のドイツの学者達の間から始まった。
 ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(Johann Joachim Winckelmann<。1717~68年>)(注1)は、古典ギリシャ人が白い肌をしていたと想像して、それを美のモデルとした。・・・
 (注1)ドイツの芸術史家にして考古学者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Joachim_Winckelmann (太田)
 <つい最近まで米国の>学生達が学校で教えられたカフカス人種なる近代的概念は、ゲッティンゲンのヨハン・フリードリッヒ・ブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach<。1752~1840年>)(注2)から来ている。・・・
 (注2)ドイツの医師で生理学者で人類学者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Friedrich_Blumenbach (太田)
 ・・・彼は、人類を色によって白、黄、銅、黄褐、黄褐色的黒(tawny-black)、漆黒(jet-black)の5つに分け、これらの違いが気候に由来するとした。
 依然として彼は、カフカスの人々が美の模範(paragon)であると確信していたので、彼は、北アフリカとインドの住民達をカフカスの範疇に入れ、印欧語の共通起源に立脚した言語分析の世界に滑り込んで行った。
 ペインターに言わせれば、この範疇が、地理的あるいは言語学的なもやいから解き放たれて、「白人」として知られる人種についての疑似科学的な言葉となったのだ。・・・」(C)
 「・・・オスマントルコにおける白人の(通常輝くばかりの白人の)オダリスク(odalisque<=昔のイスラム教国での女奴隷
http://ejje.weblio.jp/content/odalisque (太田)
>)<を>芸術的に<描いた>19世紀の・・・絵画と彫刻は、米国と欧州で大いに人気を博し、ドイツの啓蒙主義思想家であるイマニュエル・カント(Immanuel Kant)も彼女達のイメージをもとに、美の基準は普遍的である(そして、白人は普遍的な基準である)と主張したものだ。・・・」(D)
→前にも何度か申し上げたことがあるように、ギリシャを祖の一つとする欧州文明は、人種主義的文明なのです。(太田)
(続く)