太田述正コラム#3930(2010.4.5)
<カルタゴ(その3)>(2010.7.24公開)
「・・・カルタゴの艦隊は地中海を睥睨し、カルタゴは交易、及びシチリア、サルディニア、キプロスに植民地を設けたことで豊かになった。
カルタゴの将軍であるハンニバルが、BC218年の冬にピレネーとアルプスを越えてローマへという陸上ルートをとったことにはたくさんの理由があった。
ハンニバルは長らくスペインで作戦をしてきていたし、北方から侵攻することには奇襲的要素もあった。
しかし、アフリカからイタリアへという海を横切るルートをとらなかった主要な理由は、その頃までにローマが地中海の主としての地位をカルタゴから奪っていたからだ。・・・
ハンニバルは、英雄的人物であるとともに卓越した戦術家だった。
しかし彼は、最終的には、同等にすばらしい司令官であって、戦術とプロパガンダの多くを自分のこの敵対者から学び、その国<たるローマ>が独特の決意と強靭さを持っていたところのスキピオ・アフリカヌスにしてやられることになるのだ。・・・」(D)
「・・・BC146年の春、北アフリカの都市国家のカルタゴはついに斃れた。
3年間に及んだ恥ずかしいしくじりの後、スキピオ・アエミリアヌス(Scipio Aemilianus)という、新しくかつ比較的経験の浅い司令官の下、ローマ軍は、カルタゴの防衛網を突破することに成功し、カルタゴの環状の軍港に要衝的橋頭堡を設けるに至る。
この軍港は、少なくとも170隻の船を収容する容積と水辺と陸上との間を船を牽引することができる傾斜群を備えたエンジニアリング上の傑作だった。・・・
それから7日目に、カルタゴの長老達は、カルタゴの癒しの神であり、ビルサ(Byrsa)砦という<カルタゴの>最高地点に鎮座するエシュモウン(Eshmoun)神の神殿からの聖なるオリーブの枝なる捧げ物を携えてローマの将軍の所にやってきて、自分達と彼等の同僚たる市民達との命乞いをした。
スキピオが彼等の要請を受け入れた結果、その日の後刻、この砦から50,000人の女性達と子供達が城壁の狭い門から外に出た。
こうして生き残っていた市民のほとんど全員が降伏したけれど、ハスドルバル(Hasdrubal)と彼の家族、そして900人のローマ軍逃亡兵達・・つまり、スキピオからの慈悲を期待できない人々・・の一団だけがエシュモウン神殿の境内にとどまった。
しかし、時はローマ軍の側に与しており、ローマ軍は、最後の一戦を行うべく、この決死の小集団を建物の屋上へと追いやった。
その時点でハスドルバルは神経が壊れてしまった。
妻と子供達を残して、彼は、密かにスキピオの所に赴き、降伏したのだ。
彼の妻は、自分の夫の怯懦への嘲りをぶちまけた後、燃えさかる神殿の炎の中に自分自身と子供達を投じることによって、この死に行く都市にぴったりの反抗的な墓碑銘を残した。・・・
・・・ハスドルバルを含む一握りの高官達は、スキピオの戦利品の一環としてローマに連れて行かれた後、イタリアの様々な都市で快適な軟禁生活を送ることを許された。・・・
スキピオが壊滅させようとしたのはカルタゴの物理的構築物だけではなかった。
密かにローマに移されたところの、マゴ(Mago)が著したカルタゴの有名な農業論文群を除き、カルタゴの図書館群の棚を優雅に占めていた学術書群は、カルタゴに対する絶滅戦争に加担した、その地方のヌミディア(Numidia)の王子達の間にばらまかれた。
このローマの企みがいかに成功したかをこれ以上もないほど示しているのが、カルタゴ語であるポエニ語の言葉が数千を下回る数しか伝わっていないことであり、しかもその多くが固有名詞だということだ。・・・
ギリシャ語とラテン語の文献は、一貫してカルタゴ人を嘘つきで貪欲で信頼できず、残酷で傲慢で不信心であると描いてきた。・・・
かくもローマ人はカルタゴ人の裏切りを強調していたことから、ラテン語のFides Punica、直訳すれば「ポエニ的信頼(faith)」、はひどい信頼の裏切りを意味する流行の皮肉の表現となった。・・・
第一次ポエニ戦争(BC264年~241年)に勝利する過程で、それまで海軍の経験がなかったローマは、自分の艦隊を整備し、古の世界における傑出した海上勢力<たるカルタゴ>をわずか数十年の間に打ち破るに至る。
この短い期間の間に、ローマ人の頭の中で、地中海は、危険な見知らぬ存在からMare Nostrum、すなわち「我らが海」、へと変貌を遂げた。
多くのローマ人にとって、カルタゴの最終的な敗北と破壊は、その栄光と多事の歴史における偉大なる分水嶺となった。
というのは、それは、ローマがイタリアの大国から「世界」大国への変貌を劃したからだ。・・・
・・・<こうして、>第三の、かつ最後のポエニ戦争(BC149~146年)<となる。>・・・
・・・最近では、カルタゴの破壊について、それが、最終的な決着をつけようという<ローマの>欲求の結果であることが強調されるが、より実際的な考慮が本件に関し、ローマの思考の中心にあったことははっきりしている。
依然として古の地中海における最も豊かな港の都市群の一つであったカルタゴを略奪することは、紛うことなく大いに儲かる事業だった。
<また、>奴隷の競り売りとカルタゴの旧領土という広大な領域の簒奪は、文字通りローマの公的・私的金庫への大いなる富の注入を意味した。
それと同時に、このような有名な都市のこれ見よがしの破壊は、紛うことなきメッセージを発した。
それは、ローマに対する異議は許されないということと、過去の栄光はこの新しい世界では何の意味もないということだ。
カルタゴの破壊は、今や、ローマに対する抵抗の代償の血腥い記念碑として屹立するとともに、ローマの世界大国としての来るべき時代についてのぴったりとくる黙示録的ファンファーレとなったのだ。・・・
ローマは、単にカルタゴの破壊者であっただけでなく、カルタゴの偉大なる達成物たる政治的・経済的・文化的な複合世界の継承者でもあった。
ローマ人達は、時には嫌々ではあったけれど、ギリシャ人達への負債を認める用意は常にあった。
しかし、それは、ローマ人達が、自分自身のものであることについて、望まず、あるいは自信がなかったところの、哲学、芸術、及び歴史といった文化的分野がもっぱらだった。
事実、我々が古典的世界として知っているところのものは、ギリシャとローマの才能の補完的性格の認識の上に成立した。
ギリシャの革新がローマのダイナミズムと合体したのだ。
ダイナミックな地中海勢力としてのカルタゴもまた、ギリシャ世界との同様の補完的関係を享受していたが、それはローマにとって不都合な真実であり、そのことをローマとしてはどうしても認めたくはなかったのだ。・・・」(E)
3 終わりに
ローマとカルタゴは一卵性双生児であり、カルタゴの滅亡は兄弟殺しであったという感を深くしますね。
地中海は、紀元前から、一貫して一つの文明の内海に他ならなかったという思いが改めてしています。
ここからも、我々は、西ローマ帝国滅亡後の紀元後以降の欧州史と中近東史(含む北アフリカ史)もまた、一つの文明の歴史として総合的に見ていかなければならないのだと思うのです。
(完)
カルタゴ(その3)
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