太田述正コラム#3934(2010.4.7)
<パール・バック(その2)>(2010.7.27公開)
「・・・ディケンズは、・・・私の身内の人々とのほとんど唯一の接点(access)だった。私は彼の主宰するパーティーに参加した。というのも、ほかに参加すべきところがなかったからだ」<とバックは記したことがある>。
→ここは、バック、完全に考え違いをしています。ディケンズは純正アングロサクソン文明の作家ですが、バックはできそこないのアングロサクソン文明に属しているからです。
ディケンズは決して彼女の「身内」ではありませんでした。(太田)
ディケンズを読んでいない時は、パール・サイデンストリッカー(Pearl Sydenstricker<(=結婚前のバックの本名)>)は、平屋建ての自宅の背後に広がる田園地帯をあてもなく歩き回った。
丘の諸所に散らばっていた、殺害された女の赤ん坊達の骨を食って生きていた野良犬達を避ける方法を心得つつ、谷の他の子供達と遊びながら・・。・・・
<バックの父親は、>支那での最初の10年間に、彼自身の計算によれば、改宗者を10人しかつくれなかった。<恐らく、実際には一人もつくれなかったのだろう。>
→他方、知識階級では改宗者が結構出た。3姉妹の宗一族がそうだ。蒋介石が改宗したことに、米国人宣教師達が有頂天になったことは容易に想像できます。(太田)
彼は、妻の家計費を<新約>聖書の北京官話訳出版の前払い金に費やし、義和団の乱の間を耐え、敵対的な民衆によってひっかき傷をつくられ、唾を吐きかけられるのに甘んじた。
同僚の宣教師達と口げんかする一方で、彼が、罪、原罪と購いといったことを、そんなものはチンプンカンプンであるところの、高度に文明化した古い文化に押しつけることの「島国根性的愚劣さ」について、思い巡らした形跡はない。
これらすべてが、バックが20年代に夫と南京に滞在していた頃に執筆を始めた際に、フィクションの肥やしになった。
バックは、<『大地』(注1)を第一部とする>『大地の家(House of Earth)』三部作(1931~35年)という作品の中で、自分の母親をモデルにした登場人物に纏足をさせ、自分の父親の無力な(impotent)不平の感覚を<主人公の>王龍(Wang Lung)の一番下の息子に投影した。
(注1)『大地』のあらすじは、下掲を参照のこと。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Good_Earth、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9C%B0_(%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF) (太田)
後になると、バックは、西側世界から東側世界に大衆的時代錯誤を輸出し始めるけれど、彼女の初期の作品における最大の強みは、彼女が支那人を他のどんな人々ともそっくりな存在として見ることができたところにある。・・・」(C)
→「大衆的時代錯誤を輸出」とは、アジアを見下し、理想視した欧米について宣教師的にアジア人に説教する、ということでしょう。
バックは宣教師の子、そして宣教師の妻であったところ、本人もまた、骨の髄まで宣教師的な人物であった、ということだと思います。(太田)
「・・・パールの父親のアブサロムは、禁欲主義者にして、強烈なキリスト教徒であって、殉教を追求し、上海の北部のテキサス州ほどの広大な地域を自分の最初の任地として要求し、彼自身がほとんど個人的同情心も文化的共感も持っていなかった人々を改宗させるという空しい努力に着手した。・・・
<義和団の乱の直後の1901年にバックは初めて米国の地を踏んだが、後に米国で大学生活を送った後、>彼女は1914年にいそいそと支那に戻り、父親のために家事を行い、病気になっていた母親の面倒を見、孫文の国民革命によって影響を受けた、新しい世代の支那人の学生とインテリに英語を教えた。・・・
パールは、支那についての小説やルポを書き始めた頃にジョン・ロッシング・バックと結婚した。
彼は、安徽(Anhwei)省に駐在していた農業経済学者<兼宣教師>だった。
それは、恋愛から始まったのだが、この結婚は彼女の両親の不幸な一緒の生活の最悪の要素の幾ばくかを複製したものとなった。
ロッシング・・・は仕事の虫であり、二人の性的不適合は、彼女の文章、「性的抑圧、婚姻相手の強姦、そして女性が夫に対して感じる肉体的拒否感」に現れている。・・・
<娘のキャロルが知恵遅れとなったため、夫妻は、>ジャニスを養子にして姉妹関係を通じてキャロルに刺激を与えようとしたけれど、子供達を世話する感情的かつ実際的な重荷はもっぱらパールが背負うこととなった上、ロッシングは、1927年に国民党と共産党が南京で暴力的に衝突するようになって彼等の生活が危険に晒されるようになってからでさえ、支那の政治的混沌から米国へと脱出することを拒否した。・・・
<1929年にキャロルを米国の施設に預けてから、>バックは、『大地』を書き始めた(注2)。 <ニューヨークの小さい出版社からこの本が出版されると、それは大当たりとなたった。>
(注2)「・・・小説の中に王龍の娘が2人出てくるが、そのうちの1人は知的障害者であった。実は・・・バックの娘<の>知的障害者・・・<の養育や>特殊教育・・・のための金銭を手に入れることが動機のひとつとなってこの小説を書いたと言われている<ところ、そもそも、>・・・・バックは自らを王龍に見立てて、この小説の一部を書いたものと思われる。・・・」(日本語ウィキ上掲)。
なお、このような記述は英語ウィキ上掲にはない。(太田)
その奇妙で過酷な社会と禁欲的な母親である阿藍(O-lan)の肖像が、大恐慌期の普通の米国人達の恐れと相通じるものがあったのだ。・・・」(B)
→パール・バックの最大の罪は、米国人に支那人に対する同胞意識を刷り込んだところにあります。まさに、『大地』は、来るべき日米戦争へ向けて、米国人に心の準備をさせた本だと言えるでしょう。
英語ウィキ上掲には、そのものズバリ、’The novel helped prepare Americans of the 1930s to consider Chinese as allies in the coming war with Japan.’ と書かれています。(太田)
「・・・ロッシングは、影響力のある何冊かの本を書き、その後、米国務長官の支那における個人的顧問となった。・・・」(F)
→在支那米国人宣教師達は、間接的、そしてロッシングのように直接的に米国の対支那・対日政策の形成に関与したことがお分かりですね。(太田)
「・・・最終的には、バックは欧米の宣教師達を軽蔑するようになった。
衝撃を受けた宣教師連中は、バックが夫のもとを去り、離婚したばかりの自分の出版者と結婚し、婚姻相手による強姦という荒々しい光景を小説群の中で書いたことについて、軽蔑のお返しをした。
彼女が支那における宣教師団を明瞭かつ遠慮なく批判したことで、彼女は、不信心者という幾ばくかの凄まじい弾劾の対象となった。・・・」(A)
→これは、典型的な近親憎悪に過ぎず、私に言わせれば、宣教師達とバックは同じ穴の狢なのです。(太田)
(続く)
パール・バック(その2)
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