太田述正コラム#3944(2010.4.12)
<第一次インドシナ戦争(その1)>(2010.8.5公開)
1 始めに
 私は、1898年にフィリピン侵略が開始されて以来、現在まで、米国の対東アジア干渉戦争が続いている、と見ています。
 この戦争は、1945年を境に前半と後半とに分かれます。
 前半では日本との冷戦及び熱戦が行われ、その日本を敗戦に追いやった後、後半では、皮肉にも、日本の肩代わりをした形でアジアの民主主義独裁勢力との冷戦及び熱戦が行われ、現在に至っている、と見るわけです。
 こういう見方に立てば、第一次インドシナ戦争は、フランスとアジアの民主主義独裁勢力との間の熱戦であったけれど、それは同時に、後半の干渉戦争の皮切りとなったところの、米国と後者との間の冷戦でもあり、そのような意味からも注目されてしかるべきでしょう。
 このたび、テッド・モーガン(Ted Morgan)が ‘Valley of Death: The Tragedy at Dien Bien Phu That Led America into the Vietnam War’ を上梓したので、以上のような問題意識に則り、この本の概要を、例によって書評類に拠ってご紹介するとともに、あわせて私の見解を申し述べたいと思います。
A:http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/04/02/AR2010040201319_pf.html
(書評。4月10日アクセス(以下同じ))
B:http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703525704575062332439489498.html#
C:http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=124619402
(この本の著者の紹介と本からの抜き刷り)
D:http://www.dallasnews.com/sharedcontent/dws/ent/books/stories/DN-bk_valley_0307gd.ART.State.Bulldog.4b9854c.html
(書評。以下同じ)
E:http://calitreview.com/7665
F:http://www.historynet.com/book-review-valley-of-death-dien-bien-phu-and-the-vietnam-war.htm
G:http://featuresblogs.chicagotribune.com/printers-row/2010/03/review-valley-of-death-the-tragedy-at-dien-bien-phu-morgan.html
 ちなみに、モーガンは、フランス人、シャルル・アルモンド・ガブリエル・ド・グラモン伯爵(Comte St. Charles Armand Gabriel de Gramont)として、1932年にジュネーブで生まれ、フランス軍に将校としての勤務経験のある帰化米国人であり、1961年のピュリッツァー賞受賞者でもあります。
((C)、(F)、及び下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Ted_Morgan
 (1)前史
 「蒋介石のための軍需品が大量に到着していたのはハイフォン港だった。
 この港から、これらはフランスが敷設したハイフォン鉄道に積み替えられ、えっちらおっちら北方に向かい、支那との国境を越えて、雲南(Yunnan)省の首都である古い城壁都市の昆明(Kunming)へと運ばれた。
 日本にとって蒋介石のこの供給線を閉じることは喫緊の課題だった。・・・
 <ナチスドイツの>パンヅァー(戦車)師団群がパリに向けて進撃していた1940年6月、約10,000トンの軍需品が毎月ハイフォンから昆明に送り出されており、送出待ちの軍需品が125,000トンもハイフォン港の倉庫群に積み上げられていた。
 <結局、>フランスは<ドイツに>屈し、ペタン(<Henri-Philippe >Petain<。1856~1951年
http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/FWWpetain.htm (太田)
>)元帥が6月16日に休戦を請うた。
 その3日後、日本政府は、在京のフランス大使に軍需品のハイフォンからの発送を全て中止するとともに、それが守られているかどうかを確かめるための日本の監視団の同港への派遣を認めるよう要求した。・・・
 ペタンがフランス<本国>でナチスと協力したように、<当時の仏領インドシナ総督の>ドゥクー(<Jean >Decoux<。1884~1963年。総督:1940~45年。開明的統治を行った
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Decoux (太田)
>)も日本によるインドシナに係る諸要求を飲んだ。
 日本による仏領インドシナ占領は少しずつ進行した。
 1940年8月1日、日本はインドシナ全域に係る日本軍部隊通行権、飛行場群の使用、そして日本に一方的に有利な内容であることが判明した経済協定の締結を要求した。・・・
 ・・・1940年9月29日、ローズベルト(FDR)は、<日本に対する>鋼と屑鉄の輸出を禁止した。
 しかし、石油はまだ輸出されていた。
 <米財務長官の>モーゲンソー(<Henry >Morgenthau<, Jr.。1891~1967年
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Morgenthau,_Jr. (太田)
>)は、それは少な過ぎたし、遅すぎたと思った。
 <米内務長官の>イクレ(<Harold LeClair >Ickes<。1874~1952年
http://en.wikipedia.org/wiki/Harold_L._Ickes (太田)
>)は、<米国務長官の>ハル(<Cordell >Hull<。1871~1955年
http://en.wikipedia.org/wiki/Cordell_Hull (太田)
>)は、他に手段がなくなるまでは<対日>石油禁輸はしないだろうと確信していた。
 イクレは、自分の日記に、ハルは「使い物にならない」と記している。・・・」(C)
 「・・・米国政府は、この地域の様々な解放運動の側に立った。
 友情のジェスチャーとして、1945年7月に、米国は、少人数の空挺分遣隊をホーチミン(Ho Chi Minh)の前方基地に空挺降下させた。
 <この本の著者の>モーガン氏は、この邂逅の魅惑的な紹介を行っている。
 空挺要員達は、「米国の友人達」を歓迎する横断幕で迎えられ、高熱を発していたホーチミンを米国の医務要員が治療したというのだ。・・・」(B)
 「・・・第二次世界大戦の最も初期の頃においてさえ、フランクリン・ローズベルト大統領は、戦後においては、米国はフランスの植民地帝国の復活を支援しないことをはっきりさせていた。・・・」(F)
→ソ連を封じ込めるために、アフガニスタンに侵攻したソ連軍に抵抗したイスラム教原理主義勢力を米国が支援したことを思いださせる、日本を叩くための米国による共産主義「抵抗」勢力の支援です。
 アフガニスタンでも、インドシナでも、その後米国はひどいしっぺ返しを受けることになります。
 (申し上げるまでもなく、支那でも米国は、ファシスト「抵抗」勢力を支援して日本を叩こうとしたわけです。)
 しかも、ソ連は封じ込めるべき相手であったのに対し、当時の日本はむしろ米国が提携すべき相手だっただけに、当時、人種主義的帝国主義国家であった米国のやったことは、目も当てられません。(太田)
(続く)