太田述正コラム#3950(2010.4.15)
<第一次インドシナ戦争(その4)>(2010.8.9公開))
   エ フランス軍のダメ将校と強兵
 「・・・アンリ・ナヴァール大将は、1953年に自分がインドシナのフランス軍の最高司令官に任命された時、アジアでの勤務経験が皆無であることとインドシナについても何も知らないことを指摘した。
 にもかかわらず彼は、その任務は「名誉ある撤退」を成し遂げることだ、と言い渡されたのだ。
 ナヴァールは、反抗的で自分を売り込みたがる部下である<ベトナム北部担当の>ルネ・コニー(Rene Cogny<。1904~68年
http://en.wikipedia.org/wiki/Ren%C3%A9_Cogny (すぐ下の括弧内も(以下同じ)。太田)
>)将軍<(少将)>に頼っていたが、この人物、ディエンビエンフーの話は失敗すると見ていた。
 ナヴァールは、コニー不信に陥ったが彼をクビにすることに失敗した。
 コニーは1955年に調査委員会に対し、彼の諸行動は、「服務違反に近かった」ことを認めた。
 モーガンは、手際よく、「ハノイの<コニーの>司令部と一線の<フランス軍の>人々との間が完全に切れていた」事実を描く。・・・」(G)
 「インドシナにおけるフランスの総督将軍(commissioner general)<であったナヴァール>は、「その軍事知識よりはサイゴンでのシャンペン付きの夕食で、より知られていた。」
 兵士達が食糧や薬品の新たな供給を待ちわびながら死んでいっていたというのに、空挺チームは訓練が十分できていなかったために遅延することが多かった。
 その間、戦場では身の毛がよだつことが累積して行った。
 満杯の病棟で負傷者達が苦しみ、塹壕は屍体で溢れ、モンスーンの雨がフランス軍の陣営を水浸しにした。・・・」(B)
 「・・・ディエンビエンフーでは、様々な言葉をしゃべる兵士達・・ベトナム人、ドイツ人、モロッコ人、そしてアルジェリア人を含む・・が戦車将校であるクリスチャン・ド・カストリーズ(Christian de Castries<。1902~91年
http://en.wikipedia.org/wiki/Christian_de_Castries (太田)
>)将軍<(准将)>によって率いられていた。
 各種報告書とも、基地が砲撃を食らうようになると、カストリーズが、采配を振るうどころか、「自分の塹壕の中に閉じこもってしまった」ため、階級のより低い、ピエール・ラングレー(Pierre Langlais<。1909~88年
http://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_Langlais (太田)
>)大佐が作戦指揮をとったとしている。・・・」(G)
→フランス軍将校達のヘタレぶりはひどいものですね。(太田)
   オ 米国の関与
 「・・・ディエンビエンフーが屈しつつあった時、アイゼンハワー<米大統領>は、東南アジアでドミノ倒しが始まることを心配しつつも、フランスのために軍事介入することには断固として反対し続けた。
 「あの地域における熱戦に米国が関わることに激しく反対した人物で私の右に出る者はいない」と。
 当時マサチューセッツ州選出米上院議員であったジョン・F・ケネディも同様に確固としていた。
 「少しは勝利の可能性がなければ、カネ、物資、そして人員をインドシナのジャングルに投入することは、危険なまでに無益で自己破滅的だ」と。
 将来の米最高司令官の中で、リチャード・ニクソンだけが臆面もなく軍事介入すべきだと主張していた。・・・」(B)
 「・・・決戦が始まるまでは、CIAの操縦士達が戦争物資をディエンビエンフーに運んでいたし、米国政府の中の一部には核兵器の使用の可能性までも口にしつつ、米国による直接的軍事介入を是とする主張をする者もいた。
 アイゼンハワー大統領は、米国単独で部隊を派遣する考えを退け、現地に兵士こそ送らなかったけれど、フランスに対する財政支援は大いに行ったため、米国はこの戦争の費用の80%を優に負担していた計算になる。・・・」(G)
 「・・・戦闘的な米統合参謀本部議長のアーサー・ラドフォード(Arthur Radford<。1896~1973年
http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_W._Radford (太田)
>)提督は、<米各軍>の参謀長に対し、<航空>機を派遣してザップの銃座群と補給線を銃爆撃する計画を支持するよう圧力をかけ<、B-26の2個飛行隊を派遣させ>た。
 朝鮮における「警察行動」の傷をまだ舐めていた彼等は、地上戦に引きずり込まれるような事態は絶対に回避したかった。
 共産主義の脅威に対処するため、米国務長官のジョン・フォスター・ダレスは、ベトミンの上に落とすべく2個の原爆をフランスに使うよう話をした。・・・」(F)
→米国は第一次インドシナ戦争に参戦していた、と言ってよさそうです。(太田)
 「・・・攻囲されたフランスの要塞にいたうちの、フランスに忠誠を誓った大勢のベトナム人やタイ人を含む2,000人が亡くなった。
 ディエンビエンフーのフランス軍は驚愕すべきヒロイズムでもって闘ったが、すべては無に帰した。
 ベトミンの捕虜となった11,000人のうち、1954年7月20日の休戦の後、わずか3,290人しかフランスの陣営に戻ることができなかった。
 捕虜であった期間は短かったけれど、彼等は、第二次世界大戦中にバターンとビルマで連合国の捕虜達が苦しんだのと同等の死の行進と捕虜生活に耐えなければならなかったのだ。
→先の戦争の終戦後、捕虜虐待で死刑に処せられた日本軍将校が何名も出ましたが、第一次インドシナ戦争で敗北しなかったベトミンの将校は当然ながらお咎め無しだったわけです。(太田)
 ザップの軍では、推定で10,000から12,000人が殺され、同等の数が負傷した。
→戦争では、戦略目的を達成した側が勝利者であり、損害の多寡は問題になりません。
 もっとも、ベトミン側が「殺した」捕虜の数を合わせると、両者の損害は、死者の関する限りほぼ同等ということになります。(太田)
 ディエンビエンフーでの56日間の、モンスーンが降り注いだ、戦略的価値がほとんどない谷における戦闘で、20,000人近くの生命が失われたわけだ。・・・」(E)
 「1954年3月12日、すなわち、ベトナムのナショナリスト軍がフランスのディエンビエンフーの軍事基地を攻撃する前日、ベトミン司令官のボー・グエン・ザップは、「ディエンビエンフーでもなければハノイでもない。ベトナムの全てがこの戦闘にかかっている」と宣言した。
 もちろん、歴史はザップが正しかったことを証明した。
 フランスのディエンビエンフーでの敗北は、第一次インドシナ戦争の終了とフランスのベトナム支配の終了とをもたらしたのだから。
 それはまた、ベトナムの二つの国への分割をもたらしたが、この措置は、短期間のものという前提だったけれど、結局はベトナム戦争の原因になってしまう。・・・」(C)
→第一次インドシナ戦争と第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)は、ベトミン側からはもちろんのこと、米国の見地からも、事実上一つの戦争であったと言えそうです。(太田)
(続く)