太田述正コラム#3958(2010.4.19)
<ロバート・クレイギーとその戦い(続)(その2)>(2010.8.19公開)
「米国が外交を行う場合の手法は、しばしば生硬で形式張ったものになりがちだが、極東の状況は、外交技術において、より多くの繊細なタッチと適切な弾力性を必要としている。
<それに、米国は支那(=蒋介石政権)の言うことに耳を傾けすぎている。>」(180)
→クレイギーは、米国に対日交渉を委ねるという英国のやり方を痛烈に批判しているわけです。(太田)
「<1941年>11月20日に日本政府は妥協的提案をした<が、>・・・それは、南インドシナからの撤退の提案であって、少し前の現状への復帰を意図したものだった。
私は、英国政府に対し、一定の修正を施す・・それについて、日本政府の同意を得ることを信じるに足る理由があった・・ことを前提に、この提案の線における一時的妥協がなされるべきことを強く促した。
私の見解では、日本軍部隊を、南インドシナから撤退させ、北インドシナにおいて1~2個師団に制限することは、日本の陸軍のマライ、あるいは更なる南方への前進のための諸計画を完全に脱線させるもの(dislocation)であったので、日本の戦争能力を文字通り増進させるには不十分な分量の石油その他の天然資源を<日本に>供給するという代償を払ってでも追求する価値があったのだ。
<米国務長官の>ハル氏は、実際、この線に沿った日本への回答案を準備した。
それは、一定の外形的な修正を施せば、日本政府にも受容できるものにすることができた。
しかし、この建設的な反対提案は、どうやら支那政府の反対があったためのようだが、日本政府に提出されることはなかった。」(181~182)
→日本の開戦を回避する絶好の機会が、英国政府の不作為によって逃されたことをクレイギーは糾弾しているわけです。(太田)
「<その代わりに日本につきつけられたハルノート>は、力強く傲慢で誇り高く身勝手な、現代日本について若干でも知識のあるいかなる人物であれ、1941年11月の時点の状況下で<日本が>そんなものを受諾するほんのわずかの可能性があるなどとどうして思えただろうか。」(183)
→ハルノートは、事実上、日本に対する宣戦布告であった、とクレイギーは指摘しているのです。(太田)
「<日独伊>三国同盟・・・は、ロンドンとワシントンでは、日本を不可逆的に最終的にこの戦争に軍事介入させるものと見なされてきたようだが、この見解に私が与したことは一度もない。そのような見方は、ワシントンでの<日米>対話の過程での米国政府の姿勢に不当な影響を与えたのではないかと憂慮している。」(184)
→後で、クレイギーは、日本の三国同盟締結は、全く便宜的なものに他ならなかった、と記しているところから見ても、彼は、日本と独伊を峻別する見方をとっていたと言って良いでしょう。(太田)
(2)A~C節
「過去20年間に英日関係が次第に悪化した理由の主たるものは以下の通り。
1922年の英日同盟の終焉・・これは、日本において、英国で一般に知られていたものよりもはるかに深く永続的なところの、つらく幻滅した思いを掻きたてた。
1922年のワシントン諸条約・・これは、日本人の過激派の間に、日本の劣等なる海軍比率と支那に対する「不干渉」政策なる概念に対する次第に昂じる怒りを生んだ。
1929~31年の世界貿易不況・・これは、日本の安い商品の英国諸市場への流入を減じるため、英国と特定の英植民地における関税と割り当て制度の必要に迫られた導入をもたらした。」(218)
→ここで列挙されているものは、すべて英米発の話であり、クレイギーは、日英関係の悪化について、日本側に責任はない、と主張していることになります。(太田)
「勇敢で自由主義志向の外相であった佐藤<(尚武。1882~1971年。外務大臣(1937年)として帝国議会において戦争回避を説く。ソ連参戦時の駐ソ大使。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B0%9A%E6%AD%A6 (太田)
)>氏は、日支紛争勃発の直前に倒れ、よりナショナリズム志向の廣田弘毅<(1878~1948年。首相:1936~37年。外相:1933~36年、1937年。1935年、帝国議会において外相の広田は、日本の外交姿勢を「協和外交」と規定し万邦協和を目指し、「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と発言した。また、首相の時に日独防共協定を締結した。極東裁判の結果死刑。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85 (太田)
)>氏によって置き換えられた。」(220)
→クレイギーが個人名をあげた、当時の日本の政治指導者達で、クレイギーが悪く語っている人物はいません。
その中で、彼の、廣田弘毅に対する冷たい表現は、やや腑に落ちません。(太田)
「私が日本に着任した際、私が特に驚いたのは、比較的穏健な指導者達の間で、支那での紛争が英日関係に悪い影響を及ぼすことを回避するために協力したいとの意向の明確な兆候が見られたことだった。
これらの穏健派は、その大部分がナチスのねらいに懐疑的であり、人種としてのドイツ人に敵対的であり、日本の究極的なねらいは英国と米国との間で何らかの友好的な了解に達することで達成できると確信していた。
この彼等の見解において暗に示されていたのは、かかる了解は、活力に満ち<(virileはvitalのミスプリか写し違いと判断(太田))>、野心的な大和人種にとって、何らかの適切な、進化の自然の過程による「拡大」の余地を否定するものではないような、すなわち、武力に訴える必要性を回避できるものでなければならない、ということだ。
なお、「拡大」と言っても、彼等が意味するところは、領土の増大というよりは、東アジアにおける日本の政治的経済的影響力の普及だった。
これらの人々の大部分にとっては、「支那事変」の勃発はひどく悔やまれることであり、とりわけそれがかくも拡大したことについてそうだった。
そのような気持ちは、日本のあらゆる階層、上は天皇から下まで、そして陸軍と海軍においてすら大声で表明されていた。」(220~221)
→クレイギーは、東アジアで地域覇権国たらんとした日本の目的・・民主主義独裁に対する防波堤となる・・にこそ触れていませんが、その手段が(アングロサクソン的)文明の普及であったことを正しく指摘しています。
先の大戦の結果、英国から世界覇権国としての地位を引き継ぐ(奪う?)こととなった米国は、世界を舞台に、アングロサクソン文明の普及という、あたかも戦前の日本を模倣したような手段を用いるとともに、(クレイギーがあえて(?)触れなかったところの、)そのコインの裏側としての、民主主義独裁に対する防波堤としての役割を演じて行くわけですが、これを歴史の皮肉と言わずして何でしょうか。(太田)
(続く)
ロバート・クレイギーとその戦い(続)(その2)
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