太田述正コラム#3960(2010.4.20)
<ロバート・クレイギーとその戦い(続)(その3)>(2010.8.20公開)
「私は、<この報告書の中で、>「穏健派(moderatets)」と「過激派(extremists)(ないし軍事主義者(militarists))」という言葉を使っているが、日本が東アジア及び西南太平洋地域で、政治的な、そしてとりわけ、経済的な優越(dopminance)的地位を確立するという日本の総括的政策という究極的目的に関し、日本社会の二つの要素の間に明確な意見の分裂があった、ということを示唆するつもりはない。
<実際には、>明治期から生き延びてきた少数の自由主義志向の政治家を除き、日本の全員が、日本が東アジアで偉大なる「安定化的」(本当の意味は「支配的」)大国となるという日本の運命(destiny)を信じ込んでいたのだ。
日本人達のかかる精力的な諸衝動は、日本の歴史の中でかくも遅く解き放たれたが故に、より一層成功させなければならないと考えられていたのだ。
つまり、穏健派と過激派との違いは、彼等の政治的・経済的諸目的の性格というよりは、それらがどのように達成されるべきかという手法に存した<に過ぎない>のだ。」(221)
→これは、当時の日本にはその東アジア政策に関してコンセンサスが成立していた、という指摘であり、軍部、とりわけ陸軍を悪者視する、戦後日本人の奇異な物の見方をクレイギーは全くしていない、ということです。(太田)
「日本は余りにもしばしばドイツとイタリアの独裁制と何となく一緒の範疇に入れられてしまってきたため、外国の諸国の間では、帝国の将来に影響を与える大きな諸決定を、一人の人間か少人数の支配者の一味が、政治に関わる氏族や党派の一致した支持なくして<勝手に>行うことができるという印象を生んでいた。
これは完全に間違いだ。
日本は、少なくともその形式においては、慈悲深い専制主義であり、<日本の>国内政治において「新体制」として知られているものは、欧州におけるファシスト諸革命を特徴付けたところの<暴力的な>行きすぎた様々なことなしに・・・道徳的説得によって・・・達成されなければならなかったのだ。」(222)
→当時の日本における挙国一致的政治ないし総動員体制の確立は、民主主義的に行われたのであって、日本はファシスト国家になったわけではない、とクレイギーは指摘しているのであり、その含意は、あえて言えば、当時の日本は、国際情勢不穏化に伴い挙国一致的政治に転換し、第二次世界大戦への参戦とともに総動員体制を確立するに至っていた英国と似たようなものだ、ということでしょう。(太田)
「仮に、日本が全体主義国家を特徴付けるところの、世論を強制するあらゆる装置を備えていたとすれば、日本はイタリアと同じ時期にこの戦争に参加していたであろうことから、ワシントンで<日米>協議が行われることもなかったであろう。
我々として、せいぜい言えるのは、日本は観念による非人格的独裁制・・その観念とは、日本がアジアで優越的な大国になる権利を有するというもの・・であったということだ。」(223~224)
→ここでも、上記とはやや違った言い回しで、クレイギーは、日本の非全体主義性について、ダメ押ししているわけです。(太田)
「ノルウェーにおける連合国の失敗、そしてそれに次いでの1940年5月のドイツによる<オランダ、ベルギー等の>低地諸国への侵攻、そしてフランスの急速な崩壊。
この時点で、世界は、英帝国の残りの日々は限られていると信じたし、日本全域で、我々の敵はおそろしく力づけられ、我々の友はそれに相当するだけ落ち込み、弱体化した。
その頃までは客観的な外見をどうにか維持してきていた報道諸機関も、強い反英姿勢へと転換し、爾後、そうあり続けた。
こうして、穏健な見解を抱く日本の人々も、仮に、勝利を収めたドイツが、日本にとっての枢要な利益、とりわけ蘭領東インド諸島の事柄、について、ほんの少しの気遣いもなしに、或いはそれを無視することに心の痛みを感じずに、欧州における平和を取り仕切るようになったらどうしようか、と思い悩み始めたのだ。」(225)
→この頃、近衛文麿が中心となった新体制運動において、「バスに乗り遅れるな」というスローガンが多用されるようになりましたが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BD%93%E5%88%B6%E9%81%8B%E5%8B%95
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
このくだりは、当時の日本人の心理の分析として秀逸です。
つまり、クレイギーは、翌年日本が日独伊三国同盟を締結したのは、強欲から勝ち組に乗ろうとしたのではなく、いけすかないナチスドイツが東アジアに介入してくることを牽制するためだったというのです。(太田)
(続く)
ロバート・クレイギーとその戦い(続)(その3)
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