太田述正コラム#3968(2010.4.24)
<ロバート・クレイギーとその戦い(続)(その6)>(2010.8.24公開)
「<ハルノートの内容のいくつかの点については、私は、>そのすべてが日本がまず戦場において敗北を喫さない限り、受け入れる可能性が皆無であることを米国政府は自覚しているべきだったと指摘しているだけだ。」(243)
→クレイギーに言われるまでもなく、ハルノートを受諾するという選択肢はなかったのであって、対米英開戦をした当時の日本政府の指導層を我々が批判するのは間違っているということです。(太田)
「爾来の大英帝国及び米国への日本の海軍及び陸軍の累次の勝利に鑑みつつ1937年から1941年の<私の東京在勤期間>を振り返れば、英国との戦争に日本を飛び込ませようとする過激派の不断の努力に抗すべく示されてきたところの日本の穏健派分子の巧みさに驚愕せざるをえない。
<これら分子の>努力は、天津問題に関する危機が酣であった1939年の夏<(コラム#3780)>の間、特に顕著だった。
日本が、南西太平洋地域において陸、海、そして空にわたって疑問の余地なく優位にあるという認識は、日本の指導者の間でより戦争志向的で非良心的な人々をしてしばしば、英国との繰り返し起こった紛争を解決し、英国の権益と影響力を極東から永久に排除するために武力に訴えよう、という気にさせたからだ。
その誘惑が一番大きかったのが、フランスが1940年春に瓦解した瞬間だった。
というのも、その頃には、1937年から始まった計画の下における日本の軍備増強のためになされた巨大な準備がほぼ完成に近づきつつあったからだ。
にもかかわらず、平和は維持されたのだ。・・・
純粋に軍事的な都合だけの観点から言えば、この時期における英国だけに対する戦争は、我々が、最も準備ができていなくて、しかも米国からの武器援助を受ける可能性がより小さかっただけに、日本の陸軍と海軍の参謀達にとっては、1941年末に、英国と米国を束にして、しかもこの二つの大国が改善された軍事状況にあったというのに戦争を仕掛けるよりは、魅力的な案に見えたに違いない。・・・
<1940年春の時点で日本が対英開戦をしておれば、>バトル・オブ・ブリテン<(コラム#3497、3511)>にまだ勝利を収めておらず、ダンケルク<からの撤退の打撃>から回復してなかった我々は、日本によって、シンガポールを失うとともに、インド洋地域にも侵攻されていた可能性が極めて高いのだ。」(249~252)
→ここは、すこぶるつきに興味深い箇所です。
クレイギーは、英国は相対的に力が衰えてきていたというのに、その支那大陸における権益を維持しようとして、ことごとに日本の邪魔をする一方で蒋介石政権に肩入れするという、日本だけでなく、中長期的には支那の諸政権の利益にも反するような愚劣な政策をとり続けた英国政府を批判するとともに、他方で、「過激派」の主張に沿う形で、日本が少なくとも1940年春までに(対米抜き)対英開戦をすべきだった、と指摘しているわけです。
確かにこの時点で日本が英国を屈服させることができておれば、英国はビルマの援蒋ルートの閉鎖を余儀なくされ、チベット経由の援蒋ルートは存在せず、またフランスのヴィシー政権も北インドシナ経由の援蒋ルートの閉鎖を飲んだでしょうし、ソ連はモンゴルや極東地方からの援蒋や援毛沢東ルートは満州国や北支親日政権があって存在せず、新疆地区からの援蒋や援毛沢東ルートはあったとしても無視しうる程度のものであったと考えられ、結局は蒋介石政権も日本に屈することになったと思われます。
クレイギーのこのような分析を踏まえれば、英米協調を唱えた日本の穏健派は、実は、過激派より、当時の英米のこと・・チャーチル政権はアホでローズベルトを始めとする米国指導層はそれより更に数段アホ・・が分かっておらず、この時点ではもはや英米協調はありえなくなっていたということが分かっていなかった、ということになりそうです。
そこで、あえて付言すれば、我々が日本を壊滅的敗戦へと導いた当時の日本政府の指導層を批判するのなら、過激派・・端的に言えば陸軍の多数派・・ではなく、クレイギーの言う穏健派・・重臣や海軍や外務省の多数派・・をこそ批判すべきだ、ということになるのではないでしょうか。(太田)
「私は、1941年秋において、米国政府は、日本の状況を読み間違ったか、その時点までに日本との戦争を行う決意を固めていたのか、そのどちらかだ、と結論付けざるをえない。」(253)
→後者であったことを、現在の我々は知っています。
米国政府の指導層をその気にさせたのはチャーチルの英国政府であったことも・・。(太田)
「この報告書(memorandum)を終えるにあたって、その準備に私の上級スタッフ全員の迅速なる協力と支援が得られたことに謝意を表明したい。
この中で表明された意見については私だけにその責任があるが、すべての事項に関する彼等全員との議論と彼等による有意義な示唆には極めて大きな価値があったと思う。」(254)
→クレイギー自身が全責任を負いつつも、この報告書で表明された意見は、在京英大使館員幹部の総意であることを仄めかしているように思われ、興味深いものがあります。(太田)
これで、報告書の記述の紹介は終わりですが、この報告書に対する英国外務省極東部の覚書の記述の紹介を続けることにしましょう。
(続く)
ロバート・クレイギーとその戦い(続)(その6)
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