太田述正コラム#3980(2010.4.30)
<ロバート・クレイギーとその戦い(続)(その9)>(2010.9.1公開)
(3)反論3
「<日米交渉が進展しないために近衛内閣が倒れ、東條内閣が成立したが、日本で>現役軍人が首相になったのは初めてのことであり、これは、日本の憲法的慣行に反することだった(注5)。
(注5)日本では、現在でも余りなされていない問題提起だ。
ちなみに、首相ではなく、陸海軍大臣の話だが、日本では、1900~13年、及び1936年以降、軍部大臣現役武官制がとられていたところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6
「昭和10年代の陸軍の政治進出の要因を現役武官制に求める従来の歴史観は一面的であるということ、同制度は決定的要因ではなく全体的政治情勢の中で陸軍と首相、天皇・宮中勢力などとの力関係によったということ、同制度原因説は宮中、マスコミの責任を相対化する役割を果たした可能性が強い」とされつつあるところだ。
http://www.tkfd.or.jp/research/project/news.php?id=224 (太田)
これは、陸軍が初めて日本の政策について全面的に責任を負うことを受諾したものであることから、米国にとって、<足下の>砂が崩れつつあるという警告を示唆するものだった。
<この内閣では、東條首相が陸相と内相を兼務して彼に権力が集中され、>満州の計画者であった星野<直樹>氏と岸<信介>氏が<が、それぞれ内閣書記官長と商工相として>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E7%9B%B4%E6%A8%B9 (太田)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B (太田)
閣内に入り、北支那開発株式会社(North China Development Company)総裁であった賀屋<興宣>氏が蔵相になった。
これは、ナチスの線に沿って、総動員を強化するとともに国の経済諸活動を緊密に統合する意図を持った以前の経済諸政策への復帰(注6)を意味するものだった。」(72)
(注6)星野は、「第2次近衛内閣の下で<1940年に>企画院総裁に就任し、資本と経営の分離など社会主義的な経済新体制要綱原案を作成するも、自主統制を主張する財界との間に激しい摩擦を生じ、1941年に辞職」という経緯がある。(星野に係るウィキ上掲) ここで出てくる「社会主義的な」は、私見では、「日本型経済体制的な」でなければならない。(太田)
→政治面における権力の集中は、有事において古今東西いかなる国でも起こることですし、経済面においての総動員体制についても当時のすべての産業国に見られたことです。
また、日本の総動員体制たる日本型経済体制とナチスの総動員体制とを類似視している点もおかしい。私は、むしろ、英国等とナチスの総動員体制の方が類似していたのではないかと思っています。
これらはためにする議論であり、当然ながら、クレイギーは、このようなことを一切言っていません。(太田)
「<米国と手を組んだことは、日本に英国に対してだけの開戦をさせないためだが、>そのもう一つの目的は、これに加えて米国に<対日交渉の>主導権を与えることで、<万一日本が英国だけに対して>開戦した場合に、米国が英国の味方をしてくれる可能性が高まるからだった。
英国が<対日>譲歩政策を擁護するならば、それは、極めて決定的な岐路において、米国に誤解を生むとともに英国の友邦一般の英国に対する不信を生むという積極的不利益が生じかねなかった。」(74~75)
→(クレイギーが反対したところの)チャーチルの戦略がほとんどあからさまに語られていますね。(太田)
「<シンガポールが日本軍に陥落した夜、チャーチル首相は、次のように演説した。>
「艱難(rough)と平安(smooth)とを、そして良い面と悪い面とを、どちらも受け止めた上で、我々が今まさにどこにいるのかを思い定めようではないか。
第一の、かつ最大の出来事は、米国が統合的かつ全面的に我々の側で戦争を開始したことだ。
私には、世界中を探しても、このことに比肩できるものは見あたらない。
これは、私が夢見てきたことであり、追求してきたことであり、働いてきたことだが、それがついに実現したのだ」と。
ただし、英国は、日本が米国と戦いに入ることを意図的に仕組んだわけではない。
こ<の『反論』に>記録された事実が示すのは、その反対であり、英国政府は、米国政府によるところの、太平洋において平和をもたらすための努力に、完全かつ忠実なる支援を与えたのだ。」(85~86)
→語るに落ちた、とはこのことです。
チャーチルにとっては、日本軍によってシンガポールがこうも簡単に陥落したことは大きなショックであり、強がりを言わざるをえなかったという面もあるでしょうが、それがむしろホンネを吐露することにつながったと見るべきでしょう。
いずれにせよ、皆さんは、この『反論』は、全くクレイギーの『報告』に対する反論になっていない、と思われたことでしょう。(太田)
4 終わりに
一体、クレイギーとチャーチル(及びイーデン)のどちらが正しかったのでしょうか。
いや、その前に、そもそも英国は第二次世界大戦に勝利したのでしょうか。
その結論は、ドイツ降伏後、まだ日本との戦争が続いている最中に10年ぶりに行われた英国での総選挙で、英国民が、早くも事実上下しています。
英国民は、保守党を敗北させることで、第二次世界大戦を勝利に導いたチャーチルを首相の座から引きずり下ろしたからです。
そして、最近では、歴史書等において、英国敗北説が堂々と記されるようになりました。
このコラムで何度か(#3763、3788、3962)登場した’World by Itself’から引用しましょう。
「ボリングブローク(<Henry St John, 1st Viscount >Bolingbroke<。1678~1751年。英国の政治家・哲学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_St_John,_1st_Viscount_Bolingbroke (太田)
>)はマールボロー(<John Churchill, 1st >Duke of Marlborough<。1650~1722。軍人・政治家。欧州と北米を舞台に戦われたスペイン継承戦争(1701~14年)で大活躍する。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Churchill,_1st_Duke_of_Marlborough (太田)
>)<(コラム#3757)>について、「彼は偉大な男なので彼の悪徳のことは忘れてしまった」と語った。
このマールボローの偉大なる子孫であるウィンストン・スペンサー・チャーチルについても同じように書きたいという強い気持ちにさせられる。
しかし、マールボローは帝国を獲得したが、チャーチルはそれを失った。
どちらも英雄だったが、それぞれの英雄的行為が異なった結果をもたらしたのだ。
チャーチルは、<大英帝国の>「衰亡と没落」話における極めて両義的な人物だ。
修辞的には、彼は恥ずかしげもない帝国主義者だ。
帝国は、彼の血の中を流れており、彼は若き日々を帝国の辺境で過ごした。
その彼が、帝国的、貴族的な英国がポスト帝国主義的、社会民主主義的時代へと移行する導管としてのトーテム的地位を果たしたのだ。
一体彼は、自分が何をやっているのか理解していたのだろうか。
それとも、そんなことは彼にとってはどうでもよかったのだろうか。
1930年代において、彼は、その言によれば、「ダービーで勝つ」ための戦争を必要としていたというのだ。
<しかし、>それに加えて、彼は、この戦争に勝つためには、巨大な幸運の何撃かを必要としていた。・・・
<すなわち、>ヒットラーの傲慢な失策<だ。>
一つは、1941年6月22日にロシアに侵攻したことと、もう一つは、ありがたいことに米国に1941年12月7日に宣戦布告したことだ。
このどちらの大国も、チャーチル自身の意図によって参戦したわけではないし、仮に参戦していたとしても、英国の敗北を回避することができるタイミングで参戦することはなかっただろう。
このことは、チャーチルの<対独対決>戦略ではなく、チェンバレンの<対独宥和>戦略の方が正しかったことを意味する。」(PP637)
「この戦争の果実は、疑いようもなく落胆させるものだった。
戦後の英国は敗戦国のようだった。
<英国は、>くすんでみすぼらしく、軽視され(neglected)、爆弾で掘られた穴だらけだった。
もっとましなやり方があったのではないか、という感情が、帝国が次第に消え行き、敗戦諸国があらゆる分野で英国を追い抜き始めるに従い、時とともに大きくなって行った。
真実を言えば、英国の勝利は犠牲が多過ぎて引き合わない勝利だったのだ。
戦争が、・・・「国家による投資の決定」だとすれば、果たして<この戦争で>収益があったのかどうかは疑問だ。
英国は、他の欧州諸国同様、敗北したのだ。
にもかかわらず、英国は、勝利した、だから勝利の果実を享受できる、という幻想によってハンディキャップを負ったのだった。」(PP641)
私も、全く同感です。
ただし、英国が対独開戦をしなければ一番良かったとは思うものの、開戦した以上は、敗北が運命付けられていたとは思いません。
既に申し上げたように、チャーチルが、クレイギーの意見具申に反して、日本に対英米開戦をさせることによって米国を戦争に引きずり込むという戦略をとるようなことがなければ、英国が戦争に勝利する、すなわち、大英帝国を瓦解させずしてドイツに勝利することができた可能性が高いからです。
結論は明らかです。
クレイギーが正しかったのです。
このシリーズをお読みになった感想をお寄せいただければ幸いです。
(完)
ロバート・クレイギーとその戦い(続)(その9)
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はじめまして。ブログ「国際情勢の分析と予測」管理人のprinceofwales1941です。貴ブログの記事を引用した記事を私のブログにアップしました。お読み頂き、感想をいただけると幸いです。
私は太田さんの「国際法違反は日と米英側双方が犯したが、事後法である平和に対する罪は日でなく米英側だけが犯した。」という意見に賛成します。そして、平和に対する罪の中で最も重大なのは、第二次大戦ではなく、中露を中心にユーラシア大陸を共産化させることで、スターリン・毛沢東等によって多数の人々が迫害・虐殺されたことだと考えています。