太田述正コラム#4006(2010.5.13)
<帝国陸軍の内蒙工作(その3)>(2010.9.9公開)
(3)関東軍の内蒙工作
ここで、森教授の本に戻りましょう。
「陸軍革新派軍人は、・・・1928年1月19日、<勉強会を開催したが、その一員であった当時の>永田鉄山大佐は・・・「戦争は必ずしもする必要なし。戦争なきも満蒙を取る必要ありや」と<発言しており、>・・・<同じく革新派軍人が集まった>12月6日の<別の勉強会>では、・・・「帝国自存の為先(まず)満蒙に完全なる政治的権力を確立するを様子」「之が為国軍の戦争準備は対露戦争を主体とし、対支戦争準備は大なる顧慮を要せず」「但(ただし)本戦争の場合に於て米国の参加を顧慮し守勢的準備を必要とす」という結論を下している。」(34~35頁)
ここでいう満蒙とは、内満州と内蒙古のこと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E8%92%99%E5%95%8F%E9%A1%8C
(5月13日アクセス。以下同じ)ですが、これら革新派軍人の目論見通り、1931年に、関東軍が政府を押し切る形で、日本は、内満州(つまりは満州)の完全な勢力圏へ組み込みを断行することになります。
なお、陸軍革新派軍人達、ひいては帝国陸軍、にとっての最大の不安要素は、米国が介入してくることであったことを念頭に置いておいてください。
「満州事変後、・・・<革新派軍人中、>荒木貞夫陸相を担ぐロシア通が主導権を握る皇道派は、<当時の>参謀本部第三部長小畑敏四郎少将を中心として、ソ連との短期決戦を想定した作戦計画を策定して、中国を敵としない和平政策を主張していた。他方、<革新派軍人中、>支那通が多い統制派は、<当時の>第二部長永田鉄山少将を中心として、日ソ開戦時に中国がソ連に荷担する危険性を懸念し、あらかじめ中国に打撃を加えて、その意志を事前に挫くという中国<対支>一撃論を主張していた。・・・
皇道派が起案した対ソ作戦計画は、作戦地域としてもっぱらソ満国境地帯を想定していたが、統制派が起案した様々な対ソ作戦構想は、ソ満国境地帯のみならず、満州国と中国との隣接国境地帯、およびソ連・外蒙古と中国の西部内蒙古・西北地方との長大な隣接国境地帯をあいまいに含むものであった。」(266~267頁)
私が以前(コラム#3774で)記したように、皇道派は対ソ熱戦論、統制派は対ソ冷戦論であったわけですが、統制派は、帝国陸軍の近代化がソ連軍に比べて遅れていること、米国の介入を避けなければならないこと等を考慮して、冷戦論を唱えたと考えられます。
いずれにせよ、統制派の革新派軍人達の考えは極めて適切かつ合理的なものであったと私は考えます。
そして、1934年、皇道派と統制派の争いは後者の勝利で決着がつくことになったところ(268頁)、「1935年・・・7月にコミンテルン第7回大会で国際反ファシズム統一戦線に関する決議が採択される・・・<といっ>た状況下にあって、ソ連・外蒙古方面からの赤化工作の脅威に反対することは、関東軍のみならず、陸軍省や外務省の共通認識となっていった」(268頁)のです。
このような背景の下で、1935年からドイツ側から(中華民国政府と親しくドイツに満州国承認も行わせなかったところの、ドイツ外務省やドイツ軍部の抵抗を排しつつ)独日提携の打診が始まります。(注4)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E9%98%B2%E5%85%B1%E5%8D%94%E5%AE%9A
(注4)最終的に1936年11月に日独防共協定が締結される。
同協定の秘密付属協定において、第一条に「締約国の一方がソビエト連邦より挑発によらず攻撃・攻撃の脅威を受けた場合には、ソビエト連邦を援助しない。攻撃を受ける事態になった場合には両国間で協議する」と規定されたが、これは、日ソ戦勃発時にドイツにソ連を支援させないことが目的だった。
「<さて、統制派が掌握することとなった関東軍は、>伝統的な中国分治論に基づいて、南京国民政府を地方政権に転落させること<を>・・・追求<するとともに、>中国分治論の具体的施策として、ソ連・外蒙古と隣接する中国の西部内蒙古・西北地方から国民政府の影響力を排除することが・・・目標と<するに至っ>た。」(268頁)
「<こうして、>1935年以降、関東軍<は>内蒙工作<を>展開<したが、それは、>・・・綏遠・寧夏・青海・甘粛・新疆にいたる一帯で、共同防共を大義名分とした地方防共協定の成立を目指すものであった。
その第一段階において、傅作義<(1895~1974年。中華民国政府の優秀な軍人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%85%E4%BD%9C%E7%BE%A9 (太田)
)>と防共協定を締結して蒙古軍政府<(注5)>の支配地域を察北から綏東・綏西へと拡大をはかり、第二段階において、寧夏以西の地域で回教軍閥と提携し、特務機関・中継飛行場を点々と進出させ、日満独航空連絡の実現を通じた中央アジア防共回廊の建設<するというものだった>。」(269~270頁)
(注5)中華民国政府に対し高度な自治を要求していた蒙古人のデムチュクドンロブ(徳王)が、関東軍の支持の下、1936年2月に蒙古軍総司令部を創設、同年5月、蒙古軍政府を成立させた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A0%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%96
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%AE%88%E4%BF%A1 (太田)
「<他方、>陸軍省や外務省は、日独中三国防共協定の成立を視野に入れて<いたが、>・・・<関東軍の上記内蒙工作に藉口して>蒋介石はこの呼びかけを拒絶した。他方、関東軍は西北地方の回教軍閥を南京国民政府の影響から切り離そうとしており、・・・<政府と関東軍>の目標はまったく異なっていた。」(269頁)
要するに、国民世論、政府、陸海軍、陸軍参謀本部の間で確立していた国家戦略上のコンセンサス・・対露(対ソ)安全保障の追求・・の下、軍備の近代化の対ソ劣後という状況を踏まえ、帝国陸軍内で統制派(対ソ冷戦派)が皇道派(対ソ熱戦派)に勝利を収めた結果、残されたのは、(陸軍中央を含む)政府と関東軍の間での対支政策をめぐるせめぎあいであった、ということです。
現時点で振り返ってみると、中華民国政府は、支那の統一政府たる能力も意図も欠如したところの腐敗したファシスト政府だったわけであり、同政府を地方政権に転落させることを目指した関東軍の考えも、また、中国共産党はソ連の支援の下にその勢力の維持強化に努めていたわけであり、支那本体とソ連・外蒙との間に切れ目のない反共緩衝地帯を構築することを目指した関東軍の考えも、いずれも正しく、政府の考え方は間違っていた、と言わざるをえません。
ここでも惜しまれるのは、関東軍の考えが政府によって採択され、政府一丸となった対支政策が遂行されなかったことです。
(続く)
帝国陸軍の内蒙工作(その3)
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