太田述正コラム#4010(2010.5.15)
<帝国陸軍の内蒙工作(その5)>(2010.9.22公開)
 20世紀東アジア史における一大転機となった西安事件の立役者であった張学良を始めとする関係者全員が沈黙を保ったまま死んでしまった今となっては、張が同事件をどうして起こし(注8)、どのように第二次国共合作が成立したのかは永久に分からない可能性が高いわけですが、この事件がタイミング的に綏遠事件と無縁であるとは考えられません。
 少なくとも、中華民国軍の「日本軍」に対する勝利が広汎な漢人に自分達は日本軍に対抗できるとの意識を生み(注9)、これが、まず中小軍閥や中国共産党退治をし、国力を充実させてから日本に対処すると標榜してきた蒋介石の立場を著しく弱めたことは確かでしょう。
(コラム#178、187、及び下掲)
http://en.wikipedia.org/wiki/Xi%27an_Incident
 (注8)私は、張の日本に対する私的恨み説をとってきたところだが、西安事件に関する英語ウィキペディアは、張の愛国心説と張の中国共産党秘密党員説を併記している。前者はナンセンスだと思う反面、後者は大いにありうると思う。
 (注9)「ホンゴルトでの抗戦勝利は中国人の愛国心と民族主義を鼓舞し、援綏<遠>運動が全国的規模で巻き起こった。」(192頁)
 してみれば、結果的に満州事変は関東軍の独断専行でも齟齬はきたさなかったけれど、内蒙工作については、今度こそ、関東軍の独断専行を許さず、政府一丸となって実行されてしかるべきであったと思うのです。
 そうしておれば、綏遠事件で大失敗をするというようなことはありえなかったはずです。
 同事件において、日本は、「<1936年>11月・・・、日本の外務省から本事件は中国内政問題であり帝国関知せずとの非公式宣言をなした。一方・・・、関東軍は防共の立場から大なる関心を有し事態波及の場合の決意を当局談をもって発表」するという二重外交的失態を演じてしまいます。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%8F%E9%81%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
 もともと、陸軍中央も内蒙工作に反対であったところ、満州事変の張本人であった石原莞爾は、当時参謀本部の戦争指導課長をしており、自ら同工作中止の指示を何度も出したものの、関東軍に無視される、という皮肉な立場に立たされます。(196頁)
 結局関東軍は、蒙古軍に日本の予備役将校達を顧問として加わらせて事実上蒙古軍の指揮をとらせ(189頁)、蒙古軍に中華民国軍に対する爆撃も行わせたところ、この爆撃を実施したのは、南満州鉄道の子会社たる満州航空(注10)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E8%88%AA%E7%A9%BA
の臨時独立飛行隊、といった中途半端な形で綏遠事件を起こすことになります(192頁)。
 (注10)満州航空は、「有事の際は関東軍の指揮下に入った。満航のパイロットや整備士の多くは<日本の>予備役軍人であった。」(205頁)
 綏遠事件が成功裏に終わり、チャハル省と綏遠省に蒙古人と漢人による日本の保護国を成立させておれば、延安を中心とする地域に追い詰められていた中国共産党勢力は、北においては日本によって外蒙古/ソ連との間のルートを絶たれ、南からは中華民国軍の総攻撃を受け、壊滅させられていたことでしょう。
 そうなれば、(冀東防共自治政府や冀察政務委員会の成立の背景には、腐敗しかつ無能な中華民国政府に対する失望、反感もあった(それぞれについての日本語ウィキペディア前掲)ことに鑑みれば、)満州国等の安定と発展を横目で見て、中華民国からの自治獲得・分離の動きが支那全土に波及するのは必然であり、関東軍の目論見通り中華民国は地方政権に転落し、支那本体が長期にわたって小国分立状態になるか、或いは、汪兆銘ら親日派が中華民国の中で主導権をとり、支那本体が親日派によって統一されることになったと考えられるのです。
 その場合、ソ連はもちろんのこと、米英が介入することも困難であったことでしょう。
 当然、日独伊三国同盟が締結されることもなかったでしょうし、第二次大戦が始まった後、独ソ戦が始まったとしても、英国が米国に参戦させたり米国が自ら参戦したりするきっかけが得られないため、英国は米国とともにソ連に軍事援助をしてドイツとソ連がともに戦いで疲労困憊し、崩壊して行くのを高見の見物をする、という成り行きになった可能性が高いと考えられます。
 そして、日本の陸軍の統制派が追求したソ連との冷戦は、英国のドイツとの冷戦的熱戦と結合し、日英米の自由民主主義諸国が結束して独ソ両民主主義独裁国と対決する、という態勢が自然に生まれていたのではないでしょうか。
 いずれにせよ、日本帝国は満州国とともに高度経済成長を続け、大英帝国は緩慢かつ秩序ある解消過程をたどり、日本と米国が大英帝国の旧植民地地域を折半する形で世界の警察官役を演じて行き、その間、支那本体では、統一、小国分立のいかんを問わず、日本の顰みに倣った自由民主主義化と高度経済成長が進行する、というところまで思い描くのは、さすがに先走り過ぎでしょうか。
3 終わりに
 冒頭で「<この本の>裏表紙や帯上の文章・・「壮大かつ無謀な内蒙独立工作はなぜ立案されたのか?・・<その>必然の失敗に至る構造的欠陥を・・・分析する」、「エリート軍人はなぜ独走しかつ失敗するのか」・・が、この本の内容とややズレている」と申し上げたところです。
 というのは、既に想像が付くでしょうが、森教授は、内蒙独立工作が「壮大かつ無謀」であったなどとは本文中で記しておらず、また、そのような趣旨の説明もしていない上、「<その>必然の失敗に至る構造的欠陥を・・・分析」してもいないからです。
 また、同教授は、どうして内蒙独立工作が「失敗」したかについては説明しつつも、関東軍がどうして「独走」せざるをえなかったか、その理由を必ずしも明確には記していません。
 私が代わってそれを記せば、対ソ最前線に位置していた「関東軍は、国民の大方の声・・内地や大陸の現場に通暁した人々の声と言い換えても良い・・に最も忠実に従って」(コラム##4007)行動しようとしたのに対し、日本政府は、陸軍省や時として参謀本部までも含め、真剣に関東軍の声に耳を傾けなかったために、関東軍は下克上的な行動を繰り返さざるをえず、その結果、日本は1931年の満州事変では成功したけれど、1936年の綏遠事件では取り返しの付かない大失敗をした、ということになるでしょうね。
 しかし、それでもまだ大日本帝国の命運が尽きたわけではありませんでした。
 その後、帝国陸軍は、関東軍や支那派遣軍の声、ひいては日本の世論に耳を傾け、ようやく一丸となって日支事変に乗り出して行ったところ、少し前に(コラム#3968で)申し上げたように、クレイギー在日英国大使の示唆、すなわち、第二次世界大戦が始まった1939年から1940年春までの間に、帝国陸軍ご推奨の南進論に日本政府が一丸となって乗り、強硬な対英交渉を行い、英国が屈しなければ対英(だけ)開戦をして、資源の確保と援蒋ルートの完全封鎖を実現しておれば、米国の本格的介入がないまま、日支事変が日本勝利のうちに終焉を迎えていた可能性が高いからです。
 結論的に申し上げれば、日本帝国が瓦解した最大の原因は米国の人種主義的帝国主義にあったものの、当時の日本政府が、一度ならず二度までも重大な戦略決定で間違いをしでかすようなことがなければ、瓦解を回避できた可能性が高い、というのが私の見解です。
(完)