太田述正コラム#4020(2010.5.20)
<米人種主義的帝国主義と米西戦争(その2)>(2010.9.26公開)
この本では、この問題がその後どうなったのか、ほとんど書いてありません。(注2)
(注2)そこで、簡単にその後の推移をまとめておく。
・1895年12月18日、クリーブランドの要請を踏まえ、米議会は、米ベネズエラ境界委員会(United States Venezuelan Boundary Commission)設置予算を可決した。(同委員会は1896年1月に正式に発足した。)
・この頃、英国はその植民地たる南アでの<第二次ボーア>戦争(コラム#754、847、1045、3561)に直面しており、米国との軍事紛争は避けたかった。
他方、ドイツ皇帝ヴィルヘルムは南アのトランスヴァール(Transvaal)共和国(正式には南アフリカ共和国。1852年に英領から独立、1877年に英領再併合、1881年に第一次ボーア戦争の結果再独立、1902年に第二次ボーア戦争の結果英領再々併合)のクルーガー(Kruger)大統領の反英行動を公然と支援していたところ、同皇帝は、1896年1月、英国に対する公然たる戦争の脅しと受け取られるような声明を発したため、英国は、欧州で軍事紛争が生起した場合、米国の支援を得ることを試みることにした。
・結局、1896年11月、米国の意向に沿った形で、英国とベネズエラとの間で、境界紛争を国際仲裁にかけるとの条約締結について合意が成立した。
ベネズエラは、米ベネズエラ境界委員会提供の資料をもとにこの国際仲裁に臨んだ。
http://www.guyana.org/features/guyanastory/chapter85.html
(ただし、トランスヴァール関係については
http://en.wikipedia.org/wiki/South_African_Republic
(5月20日アクセス。以下同じ)による。)
「<米西戦争勃発直前の1898年>2月9日の夜・・・<当時海軍次官であった>ローズベルトは、「私は、自分が60歳になるまでに、スペインの旗とイギリスの旗が北アメリカの地図から消え去ればいいと思っている」と・・マッキンレー(<William> McKinley<。1843~1901年>)大統領<(コラム#1995、3639、3649、3826、3976)>の顧問かつ資金提供者で、当時オハイオ州選出上院議員であった<共和党の>マーク・ハンナ(Mark Hanna<。1837~1904年
http://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Hanna (太田)
>)・・・に向かって力説した。」(PP205)
→19世紀末の時点での米国の指導層の英国に対する敵意がどれほどのものであったかがお分かりいただけたのではないでしょうか。
英国を最大の仮想敵国視する米国の姿勢は、20世紀になってからも変わりませんでした。
対英作戦計画であるレッド計画についての過去コラム(#1621、1633、2831、2833、2839、3007、3692)を参照のこと。(太田)
「<1895年。ある雑誌の>6月号に、ロッジ(<Henry Cabot >Lodge<。1850~1924年>)<マサチューセッツ州選出上院議員(コラム#3972、3976)>は、「イギリス、ヴェネズエラ、そしてモンロー・ドクトリン」と題する記事を書いたが、その中で、彼はこのモンロー・ドクトリンを拡張し、米国の「西半球における正当なる(rightful)優位(supremacy)」を宣言し、このドクトリンは、「できうれば平和裏に、しかし必要があれば力尽くで」主張されるべきだとした。」(PP70)
「1890年にローズベルトは、アルフレッド・マハン(Alfred Mahan<。1840~1914年
http://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_Thayer_Mahan (太田)
>)著の『海上権力史論(The Influence of Sea Power Upon History<, 1660-1783>)』 を読んだ。・・・
アングロサクソン人種の天命(destiny)なる社会的ダーウィン主義者的観念に大きく拠りながら、マハンは、海上権力を世界支配の鍵と見た。
7つの海にわたる<英国の>貿易を守る大海軍に立脚して建設された帝国たる英国が彼のモデルでありインスピレーションのもとだった。
マハンのこの考えが世に問われたのは、欧州列強が「未開な」世界のぶんどりあいをしつつ、英国の海上における優位に激しく挑んでいた時代であったことから、この考えは世界中に一大センセーションを巻き起こした。
1894年にドイツ皇帝ヴィルヘルムは、一人の友人に、「私は、今、マハン大佐の本を読んでいるというより貪っており、暗記しようと試みている」と書き送った。
同皇帝は、『海上権力史論』をドイツの外洋艦隊の全艦艇の上級士官食堂に置くように命じた。
日本は、この本を自国の海軍兵学校の教科書として採用した。
ロッジは、マハンを、あたかも説教者が聖書を用いるように用いた。
1895年3月、彼は米上院の議場で3日間にわたって、彼の<帝国主義論ならぬ>大政策(Large Policy)<論>を展開した。
彼は、自分の机の傍らに、将来の米国の領有地・・ハワイ、キューバ、プエルトリコ、パナマ地峡を横切る運河・・に、それを際だたせるために大きな赤いマルタ十字(Maltese cross<。聖ヨハネ騎士団のシンボル
http://en.wikipedia.org/wiki/Maltese_cross (太田)
>)をつけた大きな地図を掲げた。」
(続く)
米人種主義的帝国主義と米西戦争(その2)
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