太田述正コラム#4254(2010.9.14)
<映画評論10:ラストキング・オブ・スコットランド(その1)>(2010.10.14公開)
1 始めに
 引き続き、今度は、映画『ラストキング・オブ・スコットランド(The Last King of Scotland)』(2006年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89 (※)
(9月12日アクセス。以下同じ)
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Last_King_of_Scotland_(film)
の評論です。
 この映画は、イディ・アミン(Idi Amin。1925?~2003年。ウガンダ大統領:1971~79年)の大統領時代を虚実織りまぜて描いたものであり、主人公のアミン役のフォレスト・ウィテカー(Forest Whitaker)の名演(怪演?)が彼にアカデミー賞主演男優賞等をもたらした作品である、という意味では鑑賞に値するとはいえ、事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、アミンの実際の歩み
http://en.wikipedia.org/wiki/Idi_Amin (※)
の方がはるかに面白く、色々なことを考えさせてくれました。
 そこで、アミンについての映画に触発されたアミンの人生随想、といった趣のものを書くことにしました。
 (以下、特に断っていない限り、※による。)
2 アミンの人生随想
 まず、驚くのは、ウガンダの最高指導者にまでなった人物であるというのに、アミンの生まれた場所も年もはっきりしないことです。
 彼は、ウガンダのコボコ(Koboko)か首都のカンパラ(Kampala)で1925年頃生まれたとされていますが、この頃、ウガンダが英領になってから随分時間が経過しています。
 すなわち、ウガンダは、1888年には英東アフリカ会社の社の管理地になり、1894年には英国の保護領になり、1914年にはその領域が定まっているのです。
 にもかかわらず、1925年頃の時点で、英植民地当局がウガンダの住民の把握すら怠っていた、ということが分かります。
 もちろん、アミンの生家が貧しかったということもあったのでしょうが・・。
 実は、ウガンダで、1900年から20年にかけて、睡眠病(sleeping sickness)が大流行し、全人口の約3分の2がこの病に罹り、250,000万人以上が死亡しています。
 これは、英植民地当局がウガンダ等東アフリカにおいて、保健行政などやっていないに等しかったことを物語っています。
 次に、彼の宗教ですが、名目的文化的イスラム教(Nominal Cultural Muslim)となっています。
 父親がカトリックからイスラム教に改宗した人物であるので、子供のアミンも自動的にイスラム教徒になったのでしょうが、彼は、妻を何人も持ったこと等を除き、イスラム教の戒律などロクに守らない人物であったということでしょうか。(注1)
 (注1)ウガンダは、現在、カトリック42%、プロテスタント42%、イスラム教12%、その他4%だが、アミンが生まれた頃も、イスラム教徒は圧倒的少数派だったことだろう。
 その彼は、イスラム学校に4年間通っただけで、ドロップアウトし、走り使いをしていた状況で、1946年に英植民地陸軍(British colonial army)の王立アフリカ狙撃部隊(King’s African Rifles)(注2)に入隊します。
 (注2)1902年に編成されたところの、複数の大隊からなる英植民地連隊であり、兵員は英東アフリカ領から広く集められた。将校はほとんどが英陸軍からの出向。
 この部隊に所属していた有名人には、アミンのほか、ロアルド・ダールや、米大統領のオバマの父方の祖父であるフセイン・オンヤンゴ・オバマ(Hussein Onyango Obama)がいる。
http://en.wikipedia.org/wiki/King%27s_African_Rifles
(9月13日アクセス。以下同じ)
 つまり、植民地の英軍当局は、小学校も出ていないような少年を入隊させていたということであり、その後も軍隊内で入校形式の教育を受けた形跡のないまま、アミンは、1953年には軍曹に、そして1959年には、当時黒人軍人としての最高位であった准尉に昇任し、1961年には将校に昇任します。
 この将校昇任は、もう一人と一緒に行われたところの、ウガンダ原住民として初のものだというのですが、英軍当局が、1902年に編成された部隊で、(ウガンダ以外でもほぼ同じだったようですが、)60年近く、一人の現地人将校もつくらなかったことには、信じがたい思いがします。
 1895年に編成された英領インド軍では、1920年代にインド人将校をつくっており、
http://en.wikipedia.org/wiki/British_Indian_Army
これでも、日本軍や満州軍に比べると、随分つくった時期が遅い感じですが、英国は、アフリカの黒人を二重に差別していたと言えそうです。
 なお、アミンの将校昇任が果たして公正に行われたのかどうかにも疑問符が付きます。
 というのも、彼は、身長193cmの屈強な身体を持ち、1951年から60年までウガンダのボクシング・ライトヘビー級チャンピオンであり、水泳も得意であった上、ラグビーでも名フォワード、というスポーツマンであったけれど、当時の将校(当然英国人?)が当時のアミンについて、「・・・首から上は基本的にまるでダメ(bone)であり、彼に対しては物事を一文字単語(words of one letter)で説明する必要があった」と言っていたからです。
 さて、1962年にウガンダが独立してからは、あっという間に1965年には大佐に昇任すると同時に、ウガンダ陸軍の司令官に就任し、少将の時の1971年にはクーデターを起こして国家元首に自ら就任し、何と1975年には自ら元帥を称します。
(続く)